愛知県碧南市 確かに存在した ブルジョワジーたちの高級旅館「海月」を偲ぶ
<ブルジョワジーたちの愛した「海月」旅館は新浜寺海水浴場の海岸通「蔵前通り」にあった。専用の桟橋を有し、船遊びに興じる富裕層たち。今も残る赤煉瓦造りのアーチ橋は優雅な時代の大浜を知る。風物詩であった「大浜音頭」も何処へやら。残る潮の香りを頼りに歩いてみる> 新浜寺海水浴場跡を歩く。碧南の代表的産業である醸造業の工場が建ち並ぶ間を抜けると、立派な老松が姿を見せる。 このあたり一帯は旅館が数軒、商いをしていた聞く。そのなかに高級旅館として名を知らしめた「海月」があった。 大正10年(1921)頃に撮影された海月の写真を見たことがある。格子付きの黒塀、アールデコ風なアーチが施され門柱には「御料理旅館 海月 電話十八番」の表札。 海月前には、人力車や、まだ高嶺の花であった自動車がとめられ、富裕層の利用した高級旅館であったことがうかがえる。当時は専用の桟橋を有し、優雅に船遊びを興じるブルジョワジーがいたという。 その海月のあった場所に、赤煉瓦造りの小さなアーチ橋がある。両岸をフェンスに遮られ、草ボウボウの荒れ放題で今は利用されていない。 かつて海月には敷地内に橋があり、そこで「大浜音頭」が踊られ、大浜の風物詩となった。このアーチ橋かどうか定かではない。だが、少なくとも海月の存在した時代の遺構であることは確か。 海月前の海岸通は、「蔵前通り」と呼ばれ、衣ヶ浦を一望出来る美しい通りだった。今では海月の面影も、衣ヶ浦を望むことも出来ない。 だが不思議と今も潮の仄かな香りと、海辺特有の緩やかな時の流れを感じる。 往時、ブルジョワジーたちの愉しんだ「蔵前通り」を歩いてみよう。
<「君子危うきに近寄らず!」 危険な場所に隠された、かつての海の記憶。石積みされた突堤は、長さ約20メートル、幅約6メートルの規模で残る。先端には鉄色のリング、これは何を物語るのか? 絶対に水門や防潮堤を越えてはならぬ! 直下6メートルを落ちたら命が危ない!> 浜町の臨海野球場裏から北は新川まで続く排水路がある。排水路の東岸は、伊勢湾台風以後の防災計画により設けられた防潮堤であり、一部を除き往昔の海岸線を伝えるものである。 臨海造成地が造られ、海岸線が遙か西の彼方へ移動して久しいが、大浜港側の突端には今も稼働するゲートが配備され、未だ防潮堤は現役であることを物語る。 そのゲートから防潮堤を北へ辿っていくと、鉤の手状に曲がる地点がある。 ここに海在りし時代の遺構が未だ存在することを、知る人はあまりいない。 昭和37年(1962)竣工の水門裏にある、長さ約20メートル、幅6メートルあまりの突堤。 蒲鉾状に石積みされた突堤の先端には、船のロープを留めたのか、鉄の輪が残っている。人知れず往時の姿を留めている様子は我々に何を訴えかけるであろうか。 「子供の頃はこの海岸で海老を捕っとった」と、通りがかりの男性が話し掛けてきた。砂浜というわけではなく、海老や蟹の好む泥状の干潟であったという。 突堤は216センチ高の防潮堤の向こうにある。ハッキリと断言するが危険。裏側6メートルを落下することになりかねない。 決して水門や防潮堤をのぼらない!危険なことをしない!ことを約束して欲しい。
大浜は南北朝時代から港町として栄えていたが、不思議と船員・乗船客目当ての商売は発達しなかった。 「港町といえば、船員を相手する遊郭があるはずなのに、大浜にはそれがない。寺院がこれだけ密集する大浜である。信仰心厚いその風土が許さなかったのだろう」と語る人がいる。 いわれてみれば不思議である。他の新川や棚尾・鷲塚・西端には、遊郭もしくは置屋が存在したのに、大浜にあったという話は聞いたことがない。 仕事を終えた船員がそのまま船で堀川を遡上し、江川を経て棚尾へ芸者遊びに行ったという昔話が伝わる。 では、旅館はどうか? 明治11年(1878)2月、堀川の右岸に「浜田屋」が創業した。今では全く痕跡すらもないが、大正末期に撮られた写真に浜田屋の姿を見ることが出来た。 堀川の右岸沿いに木造2階建ての建物。客室は堀川の景観を楽しめるように広く窓口を取る構造をしていた。 どんな光景が見えたのだろうか? 堀川左岸の黒い蔵が建ち並ぶ美しい景観と共に遡上する船。 月夜には、湊橋、堀川橋と太鼓橋の体を成すシルエット。絵画のような世界が望めたのだろう。
< text • photo by heboto >