愛知県碧南市 新須磨海水浴場時代から今も営業を続ける店 なんとも嬉しい

碧南市 失われた海を探して

新須磨海水浴場・海の家

新須磨海水浴場の歴史は『衣浦閣』にあり 海の余韻残る道を歩いてみる

今も営業する衣浦閣

<新須磨海水浴場開設と共に料理旅館『衣浦館』として創業。夏には浜辺に休憩所を設け、訪れた海水浴客をもてなす。昭和30年後半に海水浴場が閉鎖された後も、同じ場所で営業を続けている凄さ。新須磨海水浴場の歴史を語る上で見逃せぬ存在の衣浦閣。ぜひとも訪れてみたい> 一枚の広告を目にした。内容は、ある飲食店が90周年を迎え、記念して特別な料理を提供するというもの。 その飲食店というのが大正3年(1914)に創業した日本料理『衣浦閣』である。 初期の新須磨海水浴場の様子を伝える写真を見たことがある。海岸線に程近い林間に、木造2階建ての簡易な休憩所。 軒先には提灯がぶら下がり、髪を結った女性達が前掛け姿で立っている。2階から覗く子供とその家族。 松の木に立て掛けられた看板には「シオユ」(塩湯の意)の文字。そして奥には「衣浦館支店」の看板。 これは新須磨海水浴場に設けられた衣浦館(後の衣浦閣)の休憩所を撮ったものだという。 新須磨海水浴場が大正3年(1914)に開設された当初から営業し、海水浴場が閉鎖された後も、ずっと同じ場所で営業を続けているとは、なんとも凄いことである。 もし『衣浦閣』の創業者がこの地に着目し、店を構えなかったら、新須磨海水浴場を偲ぶ昔話として「牛車に乗って一族郎党やって来た」と賑わいを語る逸話も生まれなかった。 『衣浦閣』は格式ある日本料理の店である。少々値が張るかも知れない。だが、新須磨海水浴場と共に生きてきた衣浦閣だからこそ、その価値はあるといえまいか。

松林に名残残る大忠前の路地

<大正14年、移転した岩田以手紙材木店の跡地に次々と旅館や料理店、海の家が建ち並ぶ。松の枯葉落ちるこの道を行けば、過ぎ去った新須磨海水浴場の在りし日、夏の余韻。今も店を開ける『だい忠』に懐かしさをみる。「新須磨海水浴場追憶の道」を歩いてみよう> 海岸線跡の堤防沿い道路から、浴衣を着た人々が夕涼みをしたという松林のなかへ。 東を望めば、木々の間から懐かしい風情を持った店の軒が覗く。新須磨海水浴場時代から店を構える、仕出し料理「だい忠」。開け放たれた玄関からは、海辺の避暑地特有の旅情を漂わせてくる。 それも懐かしい昭和の夏を甦らせる懐古な雰囲気。だい忠が今も人気なのは、旨い料理も含め、新須磨海水浴場の夏を忘れない「かつての子供たち」の心を惹くからだろう。 だい忠の店先にある道を歩く。この道沿いには他にも旅館や脱衣場、休憩所などが並び賑わいを見せていた。 今もその当時のままの建物がいくつかある。この辺り一帯、新須磨海水浴場開設以前は、「岩田以手紙材木店」だった。 新須磨海水浴場が発展すると見るや、その将来性を考えて岩田以手紙材木店は他へ移転する。 大正14年(1925)、その跡地に出来たのが『だい忠』や『天喜屋』である。 道に落ちる松の枯葉を掃除するご婦人。「ええ、それは賑わったものです」と誇らしげに語る。 「新須磨海水浴場追憶の道」として、在りし海の時代を伝えるこの道をいつまでも残しておいて欲しい。

ヘボト自画像ヘボトの「潮の香りは記憶を呼び覚ます」

再建された大嘗祭悠紀地方記念碑

「大嘗祭悠紀地方記念碑」

衣浦勝景の石碑後ろに、一枚岩の石碑が目立たぬようにある。「大嘗祭悠紀地方記念碑」と銘打たれ、高さ253センチ、幅120センチと立派な姿を見せる。 この石碑は昭和60年(1985)2月に大浜上の熊野神社氏子・崇敬者らによって再建された2代目の石碑である。 以前の「大嘗祭悠紀地方記念碑」は大正4年(1915)に建立されるが、昭和28年(1953)の13号台風によって倒壊し、その後、修復されることなく残骸は砂浜に埋められたという。 「みとりそうもりの木のまに見ゆるかな ころもの浦のなみのしらゆふ」(正三位 源清綱)とは、石碑に刻まれていた歌である。 「悠紀地方風俗屏風ノ歌」として四季を表す4首が選ばれ、夏の句「衣浦新樹之波」として、この新須磨の海岸風景を詠んだ。 ちなみに冬の句「矢作川千鳥」である「矢作川弓張月のかけさして きよき流れに千島なくなり」と詠まれた石碑は今も棚尾橋架橋碑の隣にある。 大嘗祭において選ばれることは、当時大変な名誉であった。

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