< 旅順大連探訪記 >
今から100年あまり前、日露戦争(1904-5年)の激戦地となった旧満州「旅順」。
(現・中国遼寧省遼東半島の南西端 大連市旅順口区)
筆者の母(故)は、日露戦争勝利から15年後の大正9年(1920)に、この地、旅順で生まれ育った。
そして太平洋戦争終結後、父(故)、長男と共に、追われるようにこの地を離れた。
(満州引き揚げ回想記に記載)
旧 表忠塔(明治42年11月竣工) |
説明員のおじさんを囲むツアーメンバ 「コノカタガ、トーゴーヘーハチローデスネ」 と、日露戦争から表忠塔までの来歴を、 流暢な日本語で語ってくれた。 |
入場料は10元(約140円)。 塔の中は展望台まで螺旋階段が続く。 |
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展望台は薄霧の中だったが、 南側の湾口には老虎尾半島がかすかに見えていた。 |
西側は眼下に龍河が横たわる。 左方には解放橋(旧日本橋)、 対岸の通りは母が生まれ育った旧金比羅町だ。 |
展望台の欄干。 赤星印が欠け落ちてその下に現れていた形は、 なんやら旭日旗を彷彿と。。。 |
ふもとの説明板には、原名"表忠塔"や、 東郷平八郎、乃木希典などの名も見える。 |
爾霊山塔 | はい、チーズ |
日本軍が203高地から送り込んだ28サンチ榴弾で 堡塁に開いた大穴 |
戦勝記念碑 |
堡塁の中 |
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「露国コントラデンコ 少将戦死之所」 と彫ってあるはずだが、風化(損傷?)がひどく大変読みにくい。 敵将ステッセルが頼りにした部下、コンドラチェンコ少将が、 日本軍の巨弾に当たって戦死。(1904.12.15) これを機に、ステッセルはまもなく降伏へと傾いた。 「敵ながら天晴れ」 と称えてやる余裕がこの時代の日本にはあった。 ・・・・ 因みに、上記の「コントラデンコ」とは当時の呼び名で、 現在は「コンドラチェンコ」と書くようだ。 でも、近くにあった説明板の日本文には、「コトラキンカ少将」とあった。 ナンジャラホイ、だが、 同じ説明板の中国文には「康特拉琴柯少将」とあるので、 これをそのままカタカナにしたのだろう。 −ギョエテとは 俺のことかと ゲーテ言い− だね。 |
左の碑と上の戦勝記念碑とは、下のように 南北に前後した近距離にあるのだが、 現在は木が生い茂っていて、 この日は2ショットは撮れなかった。 (昭和初期の写真) ・・・・ |
28サンチ榴弾 直径11インチ(28cm) 旅順攻防戦で雌雄を決したのがこれだった。 (28サンチ榴弾砲) |
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・・・・ |
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この周辺はきれいに公園化されている。 日向ぼっこでうとうとしているネコをみつけ、 話しかけていたら、中国人のお姉さんに 日本語で話しかけられた。 |
水師営の会見(明治43年 文部省唱歌) | ||
一、 | 旅順開城約成りて 敵の将軍ステッセル 乃木大将と会見の 所はいずこ水師営 |
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二、 | 庭に一本ひともとなつめの木 弾丸あともいちじるく くずれ残れる民屋みんおくに 今ぞ相見る二将軍 (以下省略) |
水師営「會(会)見所」 当時の会見所民屋は、毛沢東による文化大革命のあおりで解体されてしまったそうだが、 後年、このように元通り復元されたという。 |
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その復元民屋 しかし、同時に復元されたはずだった中庭の記念碑は、今はなかった。 |
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中で説明員のお姉さんが流暢な日本語で 水師営の来歴を説明してくれた。 説明ガイドの節目で、 「乃木大将とステッセルで有名なこの会見記念写真は この家のどの部屋で撮ったのですか?」 と質問してみた。 答えは意外で、室内ではなく屋外だった。 (「意外」だったのは単なる私の無知から) |
それがこのあたり。 会見所のゲートをくぐって、すぐ左側の一角だ。 そこは今、このように囲われていて、 その中に若い"なつめの木"が植わっていた。 あらら、ちょっと違うのでは・・・? (会見写真と棗の木) |
・・・・ 会見所の前庭でツアーの皆さんと 若手もまばらには混じっているが、 「五十、六十は洟垂れ小僧」と言われそうな、矍鑠かくしゃくたる面々のグループなのでした。 後列のサングラスの悪相が弱冠?62の筆者。 ・・・・ |
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町は車に混じってこんなのも行き交う。 ほっとしたものを時々感じる、ここはそんな国だ。 |
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父母たちが一時住んでいた高崎町。向こうは旅順港 母の手記には、 「この地区は西港を見下す高台の住宅地のはずれで、・・・」 とある。 港からだらだらした緩い坂を上り歩き、中腹から後ろを振り返ると、 そのとおりの風景があった。 |
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元・旅順師範学校・附属小学校 | (関東州庁時代) |
元旅順第一小学校 |
玄関があった南校舎の西側 |
これは、昭和初期に母が通っていた小学校。 上の二枚は西側の道路から撮ったものだが、玄関など道路側にあった通用口はすべて塞がれていた。 |
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戦前の南校舎(伏見町校舎) |
校舎の西には表忠塔が見える |
(「遥かなり旅順」旅順第一小学校白玉会・より) この小学校は、日露戦終戦の翌年明治39年の創立というから、 外地の日本人学校としてはかなり古いほうだったろう。 創立当時はここよりやや北の柳町にできたのだが、大正年代にここ伏見町に移転したようだ。 「見渡す海の彼方には・・・」で始まる校歌は、国文学者「大和田 建樹」の作詞だ。 大和田建樹といえば、かの鉄道唱歌(♪汽笛一声新橋を・・・)の作詞で有名な、当時の売れっ子作家でもあった。 校歌の作曲者は「上じょう真行」で、この人も実は当初鉄道唱歌に曲をつけたコンビだ。 (ただし、今一般に知られている鉄道唱歌は、上の曲ではなく「多おおの梅若」の作曲だが) 分校として発足した前記第二小学校も同じ校歌だったらしい。 母が通ったのは、この伏見校舎である。 当時、校舎の西側に見える表忠塔の、さらに向こう側(金比羅町)から、毎日歩いて通っていたわけだ。 と、そう思って西側を振り返ってみたら、そう簡単には表忠塔は見えなかった。 今はかの表忠塔は、建て込んだ民家の軒の間から、辛うじて望むことができる状態だった。 |
工科大学(旅順工大) かつて優秀な人材を輩出した。 今は病院として利用されている。 |
旅順ヤマトホテル 明治の昔、夏目漱石も旅順を訪れた ときに泊まった。 |
その北隣にあったはずの、 母が通った女学校(旅順高女)は、 跡形なく、様変わりしていた。 |
旅順博物館 母は女学校から帰る道すがら、 館員の手招きで友達と裏口から入り、 ミイラなど何度も見たとか。 |
旅順監獄 ハルビン駅で伊藤博文を銃撃した 安重根は、ここに送られ処刑された。 (安重根は今も韓国の英雄という) |
その駐車場の一角に咲くアカシア。 旅順はこの時期、町のいたるところで 白いアカシアの花が咲き誇っていた。 が、この赤こそこの地の原種だとか。 |
旧大連ヤマトホテル(現・大連賓館) 今夜の宿、大連賓館は、 当時の南満州鉄道が沿線の主要都市に置いた直営ホテルのひとつ。 大正3年の竣工といえば、東京駅とほぼ同じ時代の建築物だ。 重厚なルネサンス様式だが、東京駅と同様、設計は日本人の手によるという。 ロビー ここは終戦時、火事場泥棒の如く侵略してきたソ連軍に接収され、軍司令部として一時使用された。 終戦とともに旅順の師範附属小(第二小学校)は廃校となり、父は教職を失った。 両親は旅順から大連に移転し、 食い扶持を得るために、父は特技を生かして似顔絵描きのアルバイトを始めた。 すると、父の画才はほどなくロスケ(ルースキー=ロシア人=ソ連兵)の間に広まったらしく、 ある日、ソ連の将校からここ軍司令部に呼ばれた。 恐る恐る出向くと、将校に自分の肖像を描いてくれるよう依頼された。 そのときに描いた肖像画はきっと上出来だったのだろう。料金はちゃんと支払われたという。 これが縁で、その後もレーニンやスターリンの肖像の注文が入ることになった。 まさに「芸は身を助く」だったわけだ。(泥棒にも三顧の礼?(笑)) |
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戦前のヤマトホテル |
玄関横にて |
ヤマトホテルの対面 ホテルの前は直径200mのロータリー、旧「大広場」(現中山広場)だ。 真向いには旧横浜正金銀行(現中国銀行)が昔のままにある。 博物館明治村ならぬ「博物館大正街」と呼びたくなるような、懐かしさが散見される町だ。 |