この木なんの木、棗(なつめ)の木?
水師営会見所でガイドさんが説明している写真は、日露戦争を語る書物には必ずと言っていいほど登場する写真だ。
ざっと手元の本を開いてもこの通り。
それは下のような写真で、
1905(明治38)年1月5日に会見所敷地内で撮影されたもの。
会談後の昼餉(ひるげ)を終えたところで、従軍記者の要望に応えて撮らせた唯一無二のショットだという。
中央に乃木大将とステッセルが並んでいる。
後列左から、川上外務書記官、安原大尉(参謀)、マルチェンコ中尉(参謀)、松平大尉(副官)、渡辺少佐(管理部長)、
中列に、レイス少将(参謀長)、乃木大将(司令官)、ステッセル中将(司令官)、伊地知少将(参謀長)、
前列には、ネベルスコーユ中尉(参謀)、津野田大尉(参謀)と、
以上、ロシア人4名、日本人7名の総勢11人が写っている。
「昨日の敵は今日の友」というのか、
敗軍の将を対等に扱うという乃木大将の武士道精神から、帯刀を許した上に、
実に見事にシンメトリックな配置としている。
地面に雪こそないが、満州のこの時期は日本よりずっと寒かったはずだ。
この写真で両軍の服装を見比べると、ロシア軍の防寒装備に対し、日本軍はいささか軽装に見える。
これでよく頑張ってくれたものだと思う。
この写真を何度も見ていると妙なことに気付く。
ステッセルや伊地知はカメラ目線だが、乃木やレイスの視線は明らかに右方を向いている。
ほか数名もカメラ目線だが、他は右や左やあらぬ方向を見ている。
この日の記念写真はこの一枚しかないといわれるが、
この時この一団の前にはカメラが他にもあったのではなかろうか。
・・・・
ところでこの写真は、いろいろなメディアに取り上げられる際に、
上下左右をトリミングされて、上の写真のように壁の前に居並ぶ人物集団だけが写っているケースが多い。
ところがこの写真には、より広い範囲が写っているものがあることを後日知った。
そのひとつがこれだ。
同じ写真なのに、これを見たときはいささか“青天の霹靂”だった。
泥塀の上のふちが全幅に写っている。
これならこの場所が「屋外」であって、泥塀で囲われた一隅であることが一目瞭然だ。
さらに伊地知参謀長のすぐ右側には一本の木が立っている。
冒頭のようなトリミング写真ではわからない周辺の状況が、はるかによく見えるではないか。
さて、右側のこの木は何だろう!?
文部省唱歌「水師営の会見」の二番には、
「庭に一本(ひともと)なつめの木 弾丸あともいちじるく・・・」
とある。
ステッセルが会見場に着いたときに、馬の手綱をかけた木だという。
司馬遼太郎は「坂の上の雲」に、
「水師営の会見」の歌の歌詞にあるように、門を入って左の泥塀に沿って棗の木がある。
と書いている。まさにそのあたりに位置する木である。
ははあ、これが歌に織込まれたなつめの木だろうか、、、と思う。しかし、
樹齢百年以上といわれているが、歌詞に「弾丸あともいちじるく」とうたわれているように、
無数の弾痕が樹皮を裂いて生肌をあらわにしている。
と続くのを読むと、百年?、弾痕?と、なにかちがうような気もする。
正解をご存知の方があればご教示をいただきたい。
(2010.12.26)
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(塚原健次)