2012-08 FrontPage


< 旅順の家 >


大正生まれの私の両親(いずれも故)は、終戦後、長男と共に満州(現・中国東北部)から引き揚げてきた。
そのどさくさ時代のエピソードを母は手記に書き遺している。
(→満州引き揚げ回想記
終戦当時、両親たちが住んでいた旅順(現・大連市旅順口区)は、
最近まで中国の軍港地として、外国人の踏み入れが原則的に禁止されてきた。
そのせいかどうかはわからないが、戦前の旧満州時代の街並みが現在も数多く残されている。

私は一昨年と今年(2010, 2012)の二度、ツアーに交じってその旅順を訪れた。
目的は、「坂の上の雲」の舞台の一端に触れてみたかったことと、
両親たちが終戦の前後数か月間を過ごした「家」を探してみたいという思いがあった。
しかし、その現地(旅順・旧高崎町)を訪れて、それらしき古い家並みはいくつか目にしながらも、
当時を語る人がいない今となっては、旧宅を明確に特定するには至らなかった。
(→旅順探訪記の「高崎町」の項参照)

・・・・

ところがなんと、、、
最近いただいた一通のメールから、その旧宅が奇跡的に判明することになった。
それを示すのが下の17年前の画像だ。


@二戸一棟の家(1995)
 
A二戸一棟の右側

この画像は、そのメールに続いてお送りいただいた17年前(1995)のビデオの2カットだ。
@のカットは、終戦当時中学生でこの家にお住まいだったBさんという方が、
なんと50年ぶりの「帰宅」をしたときの感動のシーンだ。
Aのカットは、門を入った中庭からカメラを右方へ振ったところ。
この中庭には、なぜか外塀と同様なしっかりしたレンガ塀が映っている。
実はこの家は一つ屋根ながら二戸建ての家なのだ。この中塀は庭を左右にきちんと隔てる形になっている。

母は「満州引き揚げ回想記」に、当時の住いをこんなふうに書いている。
・・・・
この地区は西港を見下す高台の住宅地のはずれで、どういう意味か特権地などともいわれていたらしい。
ロシア建ての黒レンガの家が点在し、坂の一番上から、陸軍中佐殿の留守宅に・・・

(中略)
・・・日本式の赤レンガ建ての二戸一棟が
旅順高女体操教諭のB先生と、旅順師範附属小の、この班最年少のうち。
うちの一段下隣は、これも赤レンガ造り二戸一棟の小さい官舎で二戸とも空家、
・・・

・・・・
上の画像の家は「赤レンガ」にはまったく見えない。でも、これが落とし穴だった。

色を別にすれば、なんと母の記述どおりのたたずまいがここにあった。
つまり中塀の向こう側に見えるドアが、両親たちがかつて出入りした玄関ということになる。
この棟のさらに右奥に見える隣家は、これも二戸一棟造りだ。

下の画像は一昨年、私自身が撮ったビデオのカットだが、これを今見返すとそのことがわかる。
(上の画像から15年後の姿)

 
B二戸一棟の左側部分(2010)
 
C右隣の棟(門が二つ。これも二戸一棟だ)

二度の旅順訪問でも、結局旧宅についてはよくわからなかった。
しかし、
この写真をネットで目にし、17年前の風景とのつながりを発見してくださった方がいた。
その古いビデオと、私の一昨年のビデオとを見比べれば、
@の二戸一棟の家の右半分が、かつて両親たちが住んだ官舎だったことは、まず疑いの余地はない。
「今さらわからなくても当然」という諦めもあったのに、
この知らせには、本当に奇跡が起きたような思いがした。

・・・・

遠からずこれらの古い家々は、開発のために整理されてしまうことだろう。
この家が消え去る前に、自分のルーツとしてもう一度この目にちゃんと刻んでおきたい気がする。
この家の中には、両家を隔てる壁にあけた大穴の痕跡があるのだろうか。

前述のメールやビデオをお送りくださったのは淡路市にお住いの高田知幸さんという方だ。
貴重な情報をお知らせくださった高田さんに、改めて感謝いたします。

(2012.8.19)