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東海道(池鮒鯉宿)その2へ
東海道 その2
ここでは、その1の続き松並木から刈谷市境までのごあんないをします。
メ ニュ ー | |||
1 | 東海道の松並木 | 8 | 問 屋 場 跡 |
2 | 小林一茶の句碑 | 9 | 池鯉鮒宿本陣跡 |
3 | 明 治 用 水 緑 道 | 10 | 知 立 古 城 跡 |
4 | 馬 市 の 跡 の 碑 | 11 | 了 運 寺(りょううんじ) |
5 | 馬 市 の 跡 | 12 | 総 持 寺(そうじじ) |
6 | 慈 眼 寺(じげんじ) | 13 | 加賀井(かがのい)騒動 |
7 | 御手洗池(みたらしいけ) | 14 | ? |
1 東海道の松並木(市指定天然記念物) 八橋を通っていた鎌倉街道が知立の町を通る東海道に移ってきたのは、15〜16世紀初期の室町時代でした。徳川家康は慶長9年(1604)東海道を整備して「伝馬の制度」を設けました。 この知立の松並木は、現在では約500mにわたりおよそ196本の松が植えられている。幹回り2mを越す古木もあるが、多くは昭和34年(1959)の伊勢湾台風以後植えられた松が多い。 また、この松並木の西の地名を引馬野と呼び、大宝2年(702)持統上皇が三河行幸の際,供の者の詠まれた歌に「引馬野に にほふはりはら いりみだれ 衣にほはせ たびのしるしに」があることからここが天皇行幸の地と推定されている。 ※引馬野に係わる地名は、ここ知立以外にも浜 松市および豊川市にも存在する。 |
2 小林一茶の句碑 「初雪や 池鯉鮒の市の 銭かます」 一茶は江戸後期の俳人で宝暦13年(1763)信濃柏原で生れた。この句は、文化10年(1813)51歳のときの句である。 |
3 明治用水緑道 この遊歩道の下を明治14年に完成した明治用水西井筋線の導水菅(直径180cm)が埋められている。 明治用水の完成によってこの地方は沃野の大地へと変わった。 |
明治用水緑道はここで東海道と分かれ左の方へ 明治用水は江戸時代に都築弥厚翁によって矢作川の水を引く計画が立てられ 翁の死後、岡本兵松・伊与田与八郎らに引き継がれ明治12年着工。13年に東井筋と中井筋が完成した。 |
4 馬市跡の碑 「東海道名所図絵」には池鯉鮒の馬市について「毎年4月25日に始まり5月5日に終わる」と記されている。 明治になって慈眼寺境内に移り、馬が牛にかわり、昭和18年(1943)にその歴史を閉じた。 |
5 馬 市 の 跡(市指定文化財)
池鯉鮒の馬市は、広重の浮世絵「東海道五十三次」で描かれている。その昔、池鯉鮒宿は木綿の集積地で、馬が運搬に使われた関係で馬市が栄えたと言われている。 馬市は毎年4月25日に始まり5月5日に終わった。宿駅の東の野(松並木)には四・五百頭の馬が繋がれ、馬の値を決める所を『談合松』と言った。 昭和の初期までは、馬が牛に変わったものの鯖市も兼ねられ賑わっていたが、昭和18年を最後にその歴史を閉じた。(知立市教育委員会) ※戦国の武将山内一豊が妻のお金で馬を買い馬揃えで信長に褒められたと言う有名な話の馬を買ったところが池鯉鮒の馬市であったという説もある。 |
6 慈 眼 寺(じげんじ)
山町桜馬場
慈眼寺の建つ辺りは、天平以来馬の集散地であったと言われている。いつの頃よりかこの地の東の方にて馬市が開かれるようになり、馬喰(ばくろう)や馬子たちによってこの地に馬頭観音が祀られた。 慶安3年(1650)刈谷楞厳寺の梅庵門和尚が弟子に観音堂を守らせ、私金でもって隣接の田畑を買い求め寺を建立したのがこの慈眼寺の始まりであると言われている。 明暦4年(1658)東海道を通りかかった禅僧がすでに有名だった馬頭観音を参詣された。その僧侶が当時京都で名高い臨済宗の高徳愚堂東寔禅師であった。寺の名がなかったので、山号・寺号名を依頼したところ快諾され、現在の「福聚山慈眼寺」の寺号を得た。 元禄5年(1692)刈谷藩主稲垣和泉守より、畑3反歩(3,000u)を観音供物料として寄進をうけた。 境内に「馬頭観世音及び家畜市場」の碑がある。 なお、今日では、慈眼寺は牡丹寺として有名で、毎年5月には素晴らしい牡丹の花が咲きそろう。一見のかちあり。 |
7 御手洗池(みたらしいけ)
山町御手洗(慈眼寺の西側)
御手洗池は殺生禁断(せっしょうきんだん)の池で、鯉や鮒が多くいたので、江戸時代知立を「池鯉鮒」と書くようになったと言われている。 ※ 現在では小公園として市民の憩いの場として利用されている。 |
8 問 屋 場
中町中
問屋(といや)役は宿駅の長で、公文書・人馬の継立・飛脚などの業務全般を司る役である。宿内の災害や事件にも心を配り、帳付け・人足の手配など困ったときの交渉や相談相手にもなった。 当番は問屋一人、年寄り2人、人馬取付け2人、帳付け一人、人馬下働き5人で、5日交代であった。 昭和45年(1970)に取り壊された建物は、安政5年(1857)に建てられた建物であった。切妻平屋建て、桟瓦葺、平入、玄関付で除地4畝15歩であった。問屋場脇に嘉永年間(1848〜54)に建てられていた常夜燈が現在知立神社の大鳥居の右の林の中に移されてある。 |
9 池鯉鮒宿本陣跡
本町本
本陣とは、江戸時代の宿駅に設けられた、大名や幕府役人、公家などが宿泊する公認の宿舎である。 東海道39番目の宿駅である池鯉鮒宿には本陣と脇本陣が各一軒ずつ置かれていた。本陣職は当初峯家(杉屋本陣)が勤めていたが、没落したため、寛文2年(1662)からは永田家(永田本陣)によって受け継がれた。敷地3千坪、建坪3百坪と広大な面積を有していたが明治8年(1875)に取り壊され2百年近くも続いた永田本陣も時代の変化と共にその使命を終えた。 |
旧国道沿いにある本陣跡の石柱 |
本陣としての役目のエピソード 明治天皇の東上 明治元年9月20日 天皇御一行京都出発 9月26日 熱田の宿にご到着 28日 鳴海をご出発 ※熱田から知立までの警護、尾張藩の兵50人 ○池鯉鮒宿でご昼食(万一に備えて宿泊のご 用意もされていた。) ※池鯉鮒から岡崎までの警護刈谷藩の兵50人 天皇のご還幸 12月16日 岡崎宿でご宿泊の予定であっ たが本陣近くで火災発生。 急遽、池鯉鮒宿永田本陣へ ※午後7時に池鯉鮒宿にご到着。事前に 準備されていたので無事にお迎えできた。 |
10 知立古城跡(市指定文化財)
知立城は、永見氏の居城であった。永見氏は代々知立神社の神主で、知立城は、平安時代の末、後白河院の北面の武士であった永見貞春の代(保元・平治の乱に従軍した)から17代貞英まで続いたが、永禄3年(1560)の桶狭間の戦で落城した。貞英の室は刈谷城主水野忠政の娘で、その子お万は家康の側室となっている。
城郭の一部、南北54間(約97m)、東西57間(約103m)の地に天正10年(1528年)刈谷城主水野忠重が、織田信長饗応のため御殿を造営した。さらにその後、水野勝成が長さ11間(約20m)横6間(約11m)の御殿を増築をして、将軍上洛の際の便殿とし、御茶屋と称したが、元禄12年(1699)の大地震により倒壊してしまった。以来、将軍以外に用のないことから再建されていない。
明治時代には、郡役場や明治用水事務所などが置かれ、碧海郡の中心として活用された。明治19年に建てられた明治用水事務所は、明治23年行なわれた陸海軍合同大演習の際、明治天皇をはじめとする一行の休憩所とされた。昭和9年に知立神社境内に移築され、「養生館」として残っている。しかし、その老朽化は激しい。
11 了 運 寺
知立神社の別当であった神宮寺の一坊で天台宗あったが、明応2年(1943)浄林了運大和尚(じょうりんりょううんだいおしょう)が浄土宗に改宗し、寺号も改めて中興した。
※中興とは、いったん衰えたことを、再び盛んにする事。
了運寺の鉄の門扉に写真のように徳川家の紋章の三つ葉葵の元となったとされる立葵の紋が付けられている。
Q「この立葵の紋章は、戦国の武将であった本多家の紋章である。本多家と了運寺と何らかの関わりがあったのだろうか。どなたか教えてください。」
A1「江戸時代の頃に、当時の了運寺の和尚が芝の増上寺(江戸)に修行に行き、この家紋の使用を許されたといわれている。」
A2「明応2年(1493)に井田野合戦があり、この合戦により松平氏が三河の覇権を決定的にしたといわれている。了運寺の「立葵の紋」も知立が松平氏の影響下に入った証ではないだろうか。松平清康の知立神社への寄進状はそれより40年もあとのことですが・・・」
※A1とA2のお二人のご指導を頂きました。
12 総 持 寺(そうじじ)
西町新川
東海道沿いの知立神社南参道入り口北側にある。神路山松智院と号し、天台寺門宗。本尊は流汗不動明王。知立神社の別当寺であった神宮寺が焼失したので、この地に移転し総持寺と改めた。別に上寺とも呼ばれた。 神宮寺は、嘉祥3年(850)円仁の創建といい、神宮寺跡碑に「嘉祥3年、僧円仁之ヲ開基ス。神宮寺七坊の学頭ナリ。玉泉坊、西林坊、一乗坊、宝蔵坊、小泉坊、吉祥坊ヲ神宮寺七坊ト称ス。天文16年(1547)戸田弾正宣光ノ兵火ニ罹リ焼亡ス」とある。 |
総持寺は総持寺跡碑に「元亀年中ノ再建ニ係リ、神路山・松智院、玉泉坊、総持寺ト称ス。天台宗ヲ奉シ寺門派ニ属シ、知立神社ヲ管ス。明治5年廃寺ス。」とみえる。 この地はまた徳川家康の側室於万の方の出生地で、寺入り口のすぐ右脇(旗にかくれている)にその記念碑がある。廃寺後庫裏は知立市西町の個人の住居として現存する。その瓦に「上」の紋が見られる。仏像は了運寺に保管されていたが、大正の初め不動明王を本尊として不動院を建立、大正15年(1926)現在地に総持寺として再建した。流汗不動明王は等身大の秘仏。 愛染明王坐像は、もと知立神社多宝塔に安置してあったものである。 |
※於万の方(小督の局・長勝院)
父知立神社神主永見貞英(吉英)、母、刈谷城主水野忠政の女。天文16年(1547)知立城にて出生。天正2年(1574)浜松の城外有富見村(うぶみむら)にて双子を出産。一人は於義丸(後の秀康)、もう一人は秘密裏に育てられ後に永見貞愛(知立神社神主を勤める)となる。於義丸は天正12年(1584)小牧長久手の戦いの後、秀吉の養子となる。名を秀康と改める。天正18年(1590)結城家の養子となる。関が原の戦いで功をあげ松平姓に復し、越前1国と信濃、若狭の一部を併せて67万石の大名となる。越前北の庄を居城として、のちに正三位権中納言に叙任された。
※現在の福井市清水山町には、知立神社の分社である「池鯉鮒神社」が存在している。
高野山にある松平秀康(結城秀康)の墓(右側の石廟)、左側の石廟は秀康が生母長勝院(於万の方)のため慶長9年(1604)に建てたもので、双子の弟永見貞愛の文字も刻まれている。松平秀康の石廟は秀康を供養するために慶長12年(1607)に嗣子忠直が建てた浄光院殿石廟である。 二棟の石室御廟は、国宝に指定されている。 |
13 加賀井騒動 (かがのいそうどう)
※加賀野井と記述されている書もある。
宝蔵寺鐘楼門 |
加賀井の墓 |
追腹塚(市指定文化財) |
関が原の戦が起こる直前に、知立を舞台として繰り広げられた事件である。この騒動については「三河後風土記」に詳しく書かれている。この騒動の主人公である加賀井重望(しげもち・幼名弥八郎)は織田信長に仕え、信長亡き後は次男の織田信雄に使えていた猪鼻(ししはな)城主加賀井重宗の子である。小牧長久手の戦において豊臣方に城を落とされた。父は隠棲をしたが、石田三成に拾われ、元の猪鼻城主に返り咲いた。
慶長5年(1600)7月、石田三成は密かに加賀井重望と木村弥一右衛門を呼び、二人に徳川家康もしくは直臣の有力大将を討つよう命じた。二人は江戸に赴いたが家康に会うことができなかった。木村は急ぎこのことを三成に報告するとて別れた。加賀井一人は、誰か討ち取る相手はいないものかと東海道を旅していた。
三州山中で浜松城主堀尾帯刀(たてわき・秀吉の臣下であったが、秀吉亡き後は家康に仕えていた。)に出会った。堀尾がこれから池鯉鮒宿杉田屋で刈谷城主水野忠重(ただしげ・徳川方)に会うと聞き、同行することにした。[堀尾は加賀井が三成に近いことを知っていたので、加賀井から大阪方の様子を探ろうとの思いもあったのだろうか。]
杉田屋で待ち受けていた水野と三人での宴席が設けられた。そのうち、すきを見て加賀井は水野を切り殺した。しかし、堀尾にすぐさま切り殺されてしまった。
※写真左端の寺は宝蔵寺(刈谷道にある寺)で、この寺に加賀井の墓(中央の写真)。右の写真は責任を感じ切腹をした水野の付き人であった家臣二人の墓「追腹塚(おいばらづか)」である。加賀井の遺骸を宝蔵寺に葬ったのは岡崎城主であった田中吉政(秀吉の亡き後、家康に近づき関が原の合戦では徳川方として戦った)であるといわれている。
(注)1 木村弥一右衛門はその後、1615年大阪夏の陣に豊臣方で参戦し討ち死にした。
2 堀尾帯刀(吉晴)は加賀井との切り合いで槍傷を負い、関が原には参戦できず。しかし、子の忠氏が代わって出 陣し戦功を賞され出雲松江藩主となった。
3 水野忠重死後、息子の勝成が家督を相続し、関が原に出陣した。その後、徳川家康隠居後、徳川秀忠に功績を認められ、初代福山藩主となった。