1.文章とは何か
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1 文章とは何か

谷崎潤一郎著

○ 言語と文章

やや細かい思想を明瞭に伝えようとすれば、言語による外はありません。言語がないとどんなに不自由かということは、日本語の通じない外国へ旅行してみるとわかります。

なおまた、言語は他人を相手にする時ばかりでなく、ひとりで物を考える時にも必要であります。

それから、他人に話すのでも、自分の言おうとすることを一遍心で言ってみて、しかる後口にだすこともあります。むずかしい事柄を述べるのには、しばしばそういうふうにする必要を感じます。されば言語は思想を伝達する機関であると同時に、思想に一つの形態を与える、まとまりをつける、という働きを持っております。

そういうわけで、言語は非常に便利なものでありますが、しかし人間が心に思っていることなら何でも言語で現せる、言語をもって表白出来ない思想や感情はない、というふうに考えたら間違いであります。

言葉は思想にまとまりをつけるという働きがある一面に、思想を一定の型に入れてしまうという欠点があります。

たとえば「紅い」という言葉があるために、その人の本当の感覚とは違ったものが伝えられる。言葉がなければ伝えられないだけのことでありますが、あるために害をすることがある。言語は万能なものでないこと、その働きは不自由であり、時には有害なものであることを、忘れてはならないのであります。

(赤い色は、似通ったもは無限にある。にもかかわらず「赤」と言葉でいってしまうと、限定された「赤」しか想像できなくなるということでしょうか。)

次ぎに、言語を口で話す代わりに、文字で示したものが文章であります。

同じ言葉でもすでに文字で書かれる以上は、口で話されるものとは自然違って来ないはずはありせん

なおまた口で話す方は、その場で感動させることを主眼ととしますが、文章の方はなるたけその感銘が長く記憶されるように書きます。従って、口でしゃべる術と文章を綴る術とは、それぞれ別の才能に属するものでありまして、話の上手な人が必ず文章が巧いというわけには行きません。

○現代文と古典文

すでに私はこの読本の最初の段で、言語は決して万能なものでないこと、その働きは思いの外不自由であり、時には有害なものであることを断っておきましたが、現代の人はややもするとこのことを忘れがちであります。そして、口語体の文章ならどんなことでも「わからせる」ように書ける、というふうに考えやすいのであります。が、そう考えたら大変な間違いであることを、常に皆さんは念頭においていただきたい。

実に口語体の大いなる欠点は、表現法の自由につられて長たらしくなり、放漫に陥りやすいことでありまして、いたずらに言葉を積み重ねるためにかえって意味がくみ取りにくくなりつつある。故に今日の急務は、この口語体の放漫を引き締め、できるだけ単純化することにあるのでありますが、それは結局古典文の精神にかえれということにほかならないのであります。

文章のコツ、すなわち人に「わからせる」ように書く秘訣は、言葉や文字で表現できることと出来ないこととの限界を知り、その限界内にとどまることが第一でありまして、古の名文家と言われる人は皆その心得を持っていました。

(更級日記を例に上げて)やさしい、わかり易い文字を使ったからといって、人に与える感銘の深さは、必ずしも饒舌な口語文に劣らないのであります

現代の口語文に最も欠けているものは、目よりも耳に訴える効果、すなわち音調の美であります。今日の人は「読む」と言えば普通「黙読する」意味に解し、また実際に声を出して読む習慣がすたれかけて来ましたので、自然文章の音響学的要素が閑却されるようになったのでありましょうが、これは文章道のためにはなはだ嘆かわしいことであります。

(英語でもやはり音読がもっとも有効であると思っています。)

それで思い出しますのは、昔は寺子屋で漢文の読み方を教えることを、「素読を授ける」と言いました。素読とは、講義をしないでただ音読することであります。意味の解釈は、尋ねれば答えてくれますが、普通は説明してくれません。ですが、古典の文章は大体音調が快く出来ていますから、わけがわからないながらも文句が耳に残り、自然とそれが唇に上がって来、少年が青年になり老年になるまでの間には、折に触れ機に臨んで繰り返し思い出されますので、そのうちには意味がわかって来るようになります。古の諺に、「読書百遍、意自ずから通ず」というのはここのことであります。

(英文でも、分からないところは飛ばしておいて、後になって実力がついてくると同じ表現がでてきた時に分かるようになっているのと同様ですね。)

詩歌や俳句の難しい言葉をわかったつもりでいるものも、さて説明せよといわれれば出来ない。しかし、この漠然たるわかり方が、実は本当なのかもしれません。なぜなら、原文の言葉を他の言葉に言い変えますと、意味がはっきりするようではありますけれども、大概の場合、ある一部分の意味だけしか伝わらない。その他の いかなる文字や言葉を持ってきても、原文が含んでいる深さと幅と響きとを言い尽くすことは出来ない。ですから、「わかっているなら現代語に訳せる」と言えるはずのものではないので、そう簡単に考える人こそわかっていない証拠であります。そうしてみると、講釈をせずに素読だけを授ける寺小屋式の教授法が、真の理解力を与えるのに最も適した方法であるかもしれません。

(ここのことは、英文の翻訳について、同様な問題であります。つまり、完全なる翻訳は存在しないのです。したがって、翻訳家はいかに意訳をして自然な日本文を綴ることが大事である。その差が翻訳のよしあしということになると思う。)

要するに、言葉を多く使い過ぎるのは返す返すも間違いでありまして、言葉の不完全なところを字面や音調で補ってこそ、立派な文章といえるのであります。

○ 西洋の文章と日本の文章

元来、われわれの国語の欠点の一つは。言葉の数が少ないという点であります。

(反対に英語は、ジョージオーエルが言っているように語彙が膨大であることが特徴です。)

国語というものは国民性と切っても切れない関係にあるのでありまして、日本語の語彙が乏しいことは、必ずしも我等の文化が西洋や支那に劣っているという意味ではありません。それよりもむしろ、我等の国民性がおしゃべりでない証拠であります。

また「以心伝心」とかいう言葉もあって、心に誠さえあれば、黙って向かい合っていても自ずからそれが先方の胸に通じる、千万言を費やすよりもそういう暗黙の諒解の方が貴いのである、という信念を持っております。

われわれの国語の構造は、少ない言葉で多くの意味を伝えるように出来ているので、沢山の言葉を積み重ねて伝えるようには、出来ていないからであります。

(現代はやたらと外来語、カタカナ言葉を増やして説明する傾向がある。)

かくてわれわれは、われわれの祖先が誇りとしていた奥床しさや慎み深さを、日に日に失いつつあるのであります。

とにかく、語彙が貧弱で構造が不完全な国語には、一方においてその欠陥を補うに足る十分な長所があることを知り、それを生かすようにしなければなりません。

「二 文章の上達法」へつづく

(注意)括弧に囲まれた色違いの文章は、服部健治の意見です。

 

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