愛知県碧南市 三河鉄道時代の縁? 幡豆郡一色町にある三河線3つの駅を探る

2004年3月31日 三河線・碧南~吉良吉田間、最後の日

西一色・三河一色・松木島

三河鉄道を再興した「神谷傳兵衛」出身地に3つの駅 全て消滅する淋しさ

<開業時「味浜駅」としてスタート。昭和2年(1927)10月に、西洋風の駅舎を建て、駅名を「西一色」に改める。通りから一歩奥に入った場所にあり、静かな立地。狭い入口に見合わず、長さのあるプラットホーム。「一色高校」の最寄り駅であった西一色駅、どんな思い出を残すのだろう> 吉良吉田へ向けて出発したLEカーが幡豆郡・一色町へと入り、最初の駅である「西一色駅」。 大正15年(1926)の開業時には、「味浜駅」としてスタートしたが、昭和2年(1927)10月25日に新しい駅舎が建てられたのを受けて、駅名も今日知られる「西一色駅」とした。 その当時建った駅舎は、西洋風のアーチと柱を持つ木造建造物で、小さいながらも大変美しい外観を成していたが、惜しくも昭和61年(1986)に取り壊されてしまう。 駅前の飲食店「梅川屋」の東隣、駐車場になっている場所に南を向いて建っていた。 西一色駅のプラットホームに降り立てば、意外にホームが長いことに気付く。平成2年(1990)にLEカーが導入される以前の光景を想像させる。 「一色高校」の最寄り駅になっていることから、朝夕の登下校時間には、多くの学生が乗降したことだろう。

<昭和33年(1958)に改装された駅舎は、どこか懐かしげな雰囲気。旅情を誘うひとり旅に似合う駅である。駅前通には商店街があり、駅がなくなってしまうのは実に惜しい。かつて諏訪神社の大提灯を見に、佐久島への渡船乗り場へと人の賑わいを見せた三河一色駅> 一色町といえば、先ず頭に浮かぶのは、「うなぎ」である。その鰻を加工する工場が立ち並ぶ東にあるのが三河一色駅。開業年月日は大正15年(1926)9月1日。大浜港~神谷間敷設当時からある駅。 一色町における交通の要所であることから、駅前通りには商店が軒を連ねる。 高度成長期の邦画にでも登場しそうな雰囲気の駅舎は、昭和33年(1958)3月に改装されたもの。 駅員の常駐しない無人駅となったのは、昭和59年(1984)。だが、平成15年(2003)の夏頃まで駅舎には旅行センターがあり、切符等の委託販売を行っていた。 昭和52年(1977)5月まで、貨物営業をしていたこともあり、駅構内は三河平坂と同程度の規模。貨物線の引き込み線路が取り除かれることなく残っていた。 プラットホームには、「名所案内 諏訪神社・佐久島渡船場まで」といった看板。かつて多くの人が降り立ち、賑わいを見せた三河一色駅も役目を終えて消えていく。

ヘボト自画像ヘボトの「追憶の三河線3月31日」

「松木島駅にある歴史・神谷傳兵衛」

吉良吉田駅のひとつ手前にある駅、松木島駅。プラットホームのみの簡素な駅である。 駅構内への入口は北にあり、エントランスとなる坂には扇状の造作物がある。これは駅舎があった時代の名残。 三河線開業まもなくに造られた駅舎は、コンクリート製で左右対称の景観を成し、東西2つの入口を持つ構造で大正時代の自由な雰囲気を伝える建築物であった。 だが、残念なことに昭和53年(1978)、老朽化を理由に取り壊されてしまった。 この松木島駅は、開業当時の大正15年(1926)から、昭和24年(1949)まで「神谷駅」と呼ばれていた。 「神谷」とは、松木島出身の実業家「神谷傳兵衛」から名付けたものである。 神谷傳兵衛は、安政3年(1856)に松木島に生まれ、ワインの醸造業で成功した人物。日本最初のカクテルとして知られる「電気ブラン」は、神谷傳兵衛が明治13年(1880)に浅草で開いた『神谷バー』で出されていたもの。 大正5年(1916)4月5日、三河鉄道の社長に就任。創業から赤字続きであった三河鉄道を見事に立て直す。大正11年(1922)4月24日、66歳で逝去。 ちなみに2代目・神谷傳兵衛も大正15年(1926)11月20日に三河鉄道の社長に就任している。

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