愛知県碧南市 三河線LEカーは矢作川を越え 「中畑」・「三河平坂」の駅へ

2004年3月31日 三河線・碧南~吉良吉田間、最後の日

中畑・三河平坂 (なかばた・みかわへいさか)

1時間後の次発を待つ喜びある「中畑駅」 鋳物のまちに「三河平坂駅」

LEカーを写真に収める少年

<矢作川を渡ってきたLEカーが西尾地区最初に着く駅、「中畑駅」。かつて争った歴史も今は何処…ほのぼのと三河線が結ぶ。駅のプラットホームに立てば、眼前に広がる田んぼの風景。最期への手向けか、満開に花を咲かせる菜の花> 矢作川を渡ってきたLEカーは、西尾市に入り最初の駅である「中畑駅」へ到着する。 中畑駅のある集落は昔、中畑村といい、対岸の伏見屋新田村(碧南市)と渡船の権利を巡って争いがながく続いた。 安政6年(1859)6月25日の事件、「悪びれる様子もなく、大きな屁を3つ放つ」態度に中畑の村人達が激高する「文兵衛女房事件」などが挙げられる。 そんな歴史など全く感じないほど、中畑駅はのどかだ。南を向く格好にあるプラットホームに立ちつくせば、眼前に広がる田園の風景。1時間後の次発を待っても苦にならない魅力がある。 昭和34年(1959)1月21日に営業を停止した貨物用のプラットホーム。誰が植えたか、一面、菜の花に包まれている。 その光景は、78年の幕を閉じる三河線に花を手向ける意図を感じた。 この中畑駅も昭和41年(1966)頃まで、駅員常駐の駅であり、駅舎の存在した時代もあった。

三河平坂のホームにて低アングルを狙う少年

<「鋳物のまち」として発展した平坂に大正15年(1926)開業の「三河平坂駅」。碧南~吉良吉田間では唯一「タブレット交換」が見られた。長大なるプラットホームに到着する小さなLEカー…その滑稽さ。昭和60年(1985)から無人駅となる。平面を基調とした駅舎も素晴らしい> 寛永12年(1635)、碧南市の大浜と共に「三河五湊」として指定された平坂。港として栄えた平坂は、また「鋳物のまち」としても知られる。 寛文11年(1671)に近江の国よりやって来た「太田庄兵衛」が、この地で鋳物業を興したことが始まりとされる。 鋳物特有の匂いと赤錆びた道。盛況な鋳物工場が並ぶなかをゆけば辿り着く駅。 幾何学模様の駅舎が印象的な「三河平坂駅」である。昭和36年(1961)9月27日に改築されたという駅舎を入れば、無人駅特有の淋しさが感じられないことに気付く。 三河平坂駅は、昭和60年(1985)10月1日に無人化となった。駅前には売店があり、自転車置き場もあることから、無人駅といえども利用客は多いようだ。 駅舎からプラットホームへ歩けば、2つの驚きに出会う。まず1つ目は複線となっている点。特定の時間帯に碧南行き/吉良吉田行きのLEカーがすれ違い、マニア垂涎の「タブレット交換」が行われていた。 2つ目は、碧南~吉良吉田間で、おそらく最長であるプラットホーム。1両、もしくは2両のLEカーが到着する光景は、滑稽でもあり。 これは、三河平坂駅で貨物輸送が盛んに行われていたことを示す。三河平坂駅では昭和52年(1977)5月25日まで貨物の取扱をしていた。

ヘボト自画像ヘボトの「追憶の三河線3月31日」

中畑鉄橋を渡るLEカー

「中畑鉄橋と平坂跨道橋」

三河線・碧南~吉良吉田間で最も魅力的な場所をひとつ挙げるとしたら、何処だろうか?  私は中畑鉄橋(矢作川鉄橋)を推す。三河旭を出発したLEカーが標高を上げていき、ゴゴゴォの轟音と共に全長418メートルの鉄橋を走りきる。 広い矢作川の上を滑るように進むLEカー、頭の中は「銀河鉄道の夜」(宮沢賢治)の世界である。 大正15年(1926)造の歴史を持ち、名古屋鉄道において2番目に長い鉄橋という。 次点は「平坂跨道橋」。こちらは歴史的な意味合いから興味を惹かれる。大正3年(1914)10月30日、西尾鉄道が西尾~平坂臨港間を開業する。 後の大正15年(1926)9月1日に開業した三河線は、先に敷設していた西尾鉄道と交差するために高架を造らざるを得なかった。 それが県道43号にある「平坂跨道橋」である。利便性を考えれば、この場所に乗換駅をつくるはずだが、2社間の仲が悪く、実現には至らなかった。 もし、この「平坂跨道橋」に駅が出来ていたならば…と考える次第である。

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