愛知県碧南市 明治時代に碧南市域の農業を一変させた大事業 「平和用水」
<明治時代に行われた大事業の成功により現在の碧南はある。渇き干上がった大地は豊かな田園へと変わり、干ばつ被害に苦しめられてきた農民達は歓喜の声を上げた。立派な記念碑は人々の感謝の大きさを表す> 長く碧南の地は水不足に悩まされ続け、農作に適しているとは言い難かった。 明治37年(1904)3月に日露戦争記念事業として耕地整理及び用水建造が計画される。 大浜・新川・棚尾・鷲塚の各村が協力して組合を作り、明治39年(1906)3月に着工。 同年7月14日(土曜)には平和用水の通水式、明治41年(1908)8月1日(土曜)に耕地整理事業の竣功式が行われた。 用水事業に従う耕地整理は碧南の半分以上の面積を占め、明治以前から存在する道は殆どが消失するという大規模なものだった。 干ばつに苦しんだ農民達の喜びは大きく、その感謝の気持ちは末広東公園に残る平和用水の記念碑(大正6年11月建立)に見てとれる。 人々の生活を支えた平和用水も碧南市の都市化に従い昭和50年(1975)に終わりを告げ、時代から姿を消すこととなった。
平和用水の基幹となる用水跡は、現在新道町と踏分町の東を走る道路がそれに当たる。 先は県道45号の中央中学校近く歩道橋辺りまで続いている。 油ヶ淵の水を汲み上げる揚水機は先述の道を北上した突き当たりにあった。 現在は建物の土台となった石垣さえなく往時を偲ぶものは何もなく、ただ畑が広がっている。 随分立派な建物だったそうで第二次世界大戦中には、米軍機の機銃掃射を受けたという話も伝わる。 碧南市域の農業を一変させた平和用水だが、遺構を偲ぶものが末広東公園の「平和用水記念碑」しか残っていないのは、少し悲しくもある。 碧南市民図書館などにある「平和用水史」(碧南市史編纂専門委員会・平和用水土地改良区沿革史編纂部会)の付録図には、揚水機関場の200分の1尺度の絵図と、耕地整理前・後の地図があるので興味のある方は一読することをお勧めする。
< text • photo by heboto >