愛知県碧南市 往昔、西端の殿様が伝えた「桃の花」 時代は桜へと移り行く
<戦前まで桃の名産地だった西端の地。 その時代、遠くから西端を見れば、集落は桃色に染まっていたそうだ。さて現代、花は変われど西端は再び春の色に染まる> 西端に殿様がいた頃、その殿様が不毛だった西端の地に桃の栽培を勧めた。 桃が名産となった頃、遠くから来た人は西端の集落を見て驚いたそうだ。集落全体が桃色に染まっていたと。 戦中、桃は生産性の高い作物へと転作され、桃の生産は衰えた。そして西端から春の色はなくなった。 しかし現在、西端には再び春に色が戻ってきている。長田川に架かる沢渡橋近辺に桜並木が続く。 まだまだ桜の木は若いが、いつの日かきっと西端に訪れる人を驚かす事になるだろう。
<「いつか2人で、ここに来たの覚えてる?」 ボンボリに照らされる桜の下で熟年夫婦が交わす言葉。苦楽を越えてきた大人が訪れる応仁寺の夜桜> 夜桜は静かに語りかける。ここには馬鹿騒ぎをする若者はいない。世間話に花を咲かせてしまう、おばちゃんもいない。 子育てから、やっと開放された熟年夫婦が多く訪れる、夜の応仁寺。桜祭りの期間にライトアップされる名所の中でもっとも静かな場所。 耳障りな音もなく、ただ春の優しい夜風に提灯がゆらりとしている。かつては見せた応仁寺の賑わいは熟年夫婦の心内にある。 再び時間を共有する2人に相応しい夜桜が、ここ応仁寺には咲いている。
「応仁寺」(おうにんじ) 応仁2年(1468)、蓮如上人は比叡山衆徒による迫害を避け、弟子の如光の出身地、西端にやってくる。 杉浦一族の三郎左衛門光房が、宗門の拠り所として、現在の場所に西端道場を建てた。 のちに応仁寺となる。寺の名は蓮如上人がこの西端に来たのが、応仁の年号であったから、応仁寺とした。
西端区内を横断する道。往時、高浜と西尾を結ぶ街道として「高浜道」と呼ばれた。 新川の東山から「明治橋」を経てやってくる道とその「高浜道」が交差する地点、西へ坂を上った辺りに少しばかりの桜並木がある。 過ぎ去りし冬から目を覚ました桜は、枝を道いっぱいに拡げあい、春爛漫の時を待つ。 陽気な春の訪れとともに蕾は開き、満開の桜トンネルが道行く人々を楽しませる。 「城はなくとも城下町」の自負を持つ西端、その古風なまちの風情に相応しい桜の景観。 「いつのころからか、誰が?」といった由緒はこの桜たちにはないけれど、西端の誇りの一つになっている。 坂の途中には明治29年(1896)に建立された西端藩の医師「吉岡立齊」の碑がある。 鷲塚騒動で役人殺しの罪を一身に背負った「榊原喜代七」。 彼は西端の刑場で処刑された。冤罪にもかかわらず、刑場へと集まった人々に榊原喜代七は丁寧に別れの挨拶を述べ最期を遂げた。 その律儀な姿に人々が感涙するなか、検死にあたったのが吉岡立齊である。 桜並木ある高浜道は、榊原喜代七の故郷である安城市「城ヶ入」の脇をかすめていく。
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