愛知県碧南市 面白い姿の狐さんに会いたければ 西松江の「稲荷社」を訪ねる

碧南市新川西部地区へようこそ!

松江のお稲荷さん

鋳物師・国松十兵衛が勧請した歴史 コミカルな姿をする狐像に会う愉しみ

ユーモラスな表情の狐さん

<鋳物師・国松十兵衛が代官所より移したという西松江の稲荷社を訪れる。勇敢な狐像の後ろに、思わず笑いが込み上げる存在。建立年も寄進者も刻まれず、正体不明の狐さん。あまりに滑稽な姿に何か特別な由緒でもあるのかと勘ぐってしまう> 明石公園の賑わいが聞こえる場所。「松江稲荷大明神」の真っ赤な旗が重なり合い、人々の思いを垣間見る。 ここは西松江の人々が深く信仰する「稲荷社」である。 明治27年(1894)建立の鳥居は風化激しく、かつては海に面した断崖の地であった事を物語る。 この西松江の稲荷社は、延宝2年(1674)に鳥居牛之助が松江の代官として挙母城から移ってきた際、信州の城より勧請し、 屋敷の神として祀っていた稲荷社を、文久2年(1862)に鋳物師・国松十兵衛が代官・鳥山牛之助の許しを得て現在の地へ移した由緒がある。 決して広くはない境内で一際異彩を放つ存在があった。拝殿前に鎮座する狐さん達だ。 体長74センチの細い体に24センチの球体をした頭。その姿は実にユーモラスで笑いが込み上げ来る。 制作年・寄進者など、一切の情報が無く、謎の存在である。一体どんな由緒があるのだろうか。

碧南鋳物発祥の地の石碑

<松江は碧南市における鋳物業発祥の地であった。碧南鋳物業の祖、国松十兵衛は延宝4年(1676)に近江国・辻村から鋳物業に適した条件を持つ松江の地にやってくる> 稲荷社境内の片隅に1つの碑が立っている。「碧南鋳物発祥之地」とあり、昭和51年(1976)10月に鋳物工場組合によって建立される。 碧南市域における鋳物は、延宝4年(1676)に近江の国・辻村から国松十兵衛が長男・七郎兵衛を連れて松江の地で創業したことに始まる。 以降、代々受け継がれた鋳物の技術も文久元年(1861)7代目で廃れてしまい、 碧南の鋳物業再興は明治41年(1908)に太田徳二郎が棚尾で創業するまで待たねばならなかった。 国松十兵衛の邸宅・工場は松江稲荷社から南、渡船場跡近くにあった。碧南市内で現存する国松十兵衛の作品には、道場山・法淋寺の喚鐘(無銘)がある。

二宮金次郎さんの陰歴史に関するミニ知識

国松十兵衛(くにまつじゅうべい) 生年不明。延宝4年(1678)、松江の斎藤善九郎の招きによって近江国・辻村(滋賀県栗東町辻)より、長男の七郎兵衛と共に松江にやって来る。 鋳造を行う条件に恵まれたこの地で七代、190年間に渡って鋳造業を営む。家圀・富教・茂喬・光同・光重と続くが、七代目の光圀で休業し、文久元年(1861)に廃業届を提出したことにより鋳造師としての家系が途絶えた。 作品の多くが第二次世界大戦の金属供出により失われてしまった。現在残されるものは、道場山・法淋寺の喚鐘等。 旭南部の貞照院に文化9年(1812)建立の国松家歴代の宝筺印塔がある。

ヘボト自画像ヘボトの「如是我聞(にょぜがもん)」

真っ赤な涎掛けのお地蔵さんがたつ

「松江の渡し」

大浜街道の「新川病院北」交差点一画に大きな常夜燈がある。この常夜燈は廻船問屋をしていた「両口屋半助」が文政7年(1824)に海路の安全を願った建てたもの。 ここから西へ向かう坂道を下った先が、かつて松江の渡しがあった場所である。 松江の渡しは明治15年(1882)に半田・乙川との間で創業し、昭和31年(1956)に衣浦大橋が開通するまで続いた。 現在、鶴ヶ崎にある道標は、かつてこの常夜燈のある一画に置かれていたとされ、「西 かめざき」は松江の渡しを示す。 同じ敷地にある秋葉社を覗くと獅子・狛犬が鎮座している。由緒は不明だが、躍動感ある素晴らしいもの。 また近くにある相生町ちびっ子広場北の赤煉瓦壁の一部は、朝日新聞支社の建物跡ということを聞いた。

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