愛知県碧南市 宝永2年(1705)に開削された新川に架かる橋 「新川橋」を渡る

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新川橋 (しんかわばし)

「順風満帆」の言葉を思い浮かべる新川橋 まさに「新川の力」を示す存在

近代的デザインの新川橋

<新川開削当時から架設されていた「新川橋」。地区名を冠するに相応しく派手な外観は新川に架かる橋のフラッグシップ的な存在を示す。宵に灯される明かり、美しき新川両岸を眺め過ぎゆく時を愉しむ贅沢> 道場山の急な坂を下れば見えてくる。マストに帆を立てるデザイン、「新川橋」である。 宝永2年(1705)新川が開削された当初から存在していた歴史ある橋。 碧南市の中でも有力者の多い新川地区の名を冠した橋であるが故に、その力の入れような並々ならぬものがある。 平成9(1997)12月に竣工し、設計は著名な建築家の手による。欄干は波形の体を成し、夜には5つの照明が足下を仄かに照らす。幅330センチの歩道を備え、車道とは幅広のコンクリートで隔てられる。 船のマストを模したというアーチ状のオブジェを赤い支柱が支え、オブジェ内部には13の間接照明。反対側には港でよく見られる係船柱を模したオブジェ。 おそらく碧南市内に架かる橋の内で最も贅を尽くした橋だろう。

昭和の時代を感じさせる水門

<美しき景観を一変させた昭和38年造の新川水門。突き出たコンクリート柱には修行僧のような面持ちで糸を垂れる人々。完成当初はその無粋な外観に嘆く人もいたが、今では新川を語る上でのランドマーク的な存在となっている> 新川橋の西、90メートルの位置には昭和38年(1963)5月に竣工した新川水門。 5つの開口扉を持ち、上部には作業室を備える本格的な水門である。 大浜の堀川にも同じような構造の水門が平成13年(2001)まで存在したが、今はこの新川水門のみである。 伊勢湾台風以後の水害対策により、美しかった新川河口周辺の景観は激変し、この新川水門が完成した当初は心中複雑な思いでいた人も多かったという。 新川水門には車1台分の幅員を持つ道が併設され、車両往来も可となっているが、地上高の低い車は少々不安だ。 欄干の外には4つのコンクリ支柱が突出し、幅1メートル・奥行き1.8メートルの空間を作りだしている。 そこには胡座を組み、釣り糸を垂れる人々。皆、同じ方角を向き、微動だにしない姿は修行僧を思わせる。

二宮金次郎さんの陰歴史に関するミニ知識

新川橋(しんかわばし) 宝永2年(1705)の新川開削の際、耕作道に架けた橋が始まりである。 その頃は西にある新川水門の位置にあり、少しずつ上流に移動し現在の場所に落ち着く。 元文5年(1740)には水門兼用の橋として機能していた。明和年間(1764~1772)には「道場山橋」と呼ばれ、天保6年(1835)に「元水門橋」、または「新川下橋」という名称の時代もあった。 明治に入って今日の「新川橋」と呼ばれるようになり、明治18年(1885)に土橋から新たに木橋となり、昭和2年(1927)にコンクリート製の橋となる。 現在、鶴ヶ崎区民館には歴代の欄干一部が保存されている。

ヘボト自画像ヘボトの「如是我聞(にょぜがもん)」

元禄橋から東へ向かう川辺

「元禄橋の由来」

新川橋からほんの僅かな距離。今や岸部の道と同化してしまっている橋がある。コンクリート製の欄干にはガードレールに隠された青銅製のプレート。 元禄4年(1691)の大水害の後、油ヶ渕の新たな悪水抜きとして新堀川開削を計画した三宅又兵衛だが、大浜村の反対と資金3500両の捻出に困り、計画は頓挫した。 計画を引き継いだ平野清兵衛らと池回りの村々は元禄16年(1703)に工事を開始し、宝永2年(1705)に新堀川、即ち今日の新川を完成させる。 明治19年(1886)、新川に架かっていた橋を羽久手川の下流である現在地へ移築新設した際、当時の有力者であった岡本八右衛門・板倉松太郎らが新川開削の歴史に因み「元禄橋」と命名した。

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