愛知県碧南市 鳥居前にグラウンドがあるのはなぜ? 「新川神社」を訪れて驚く

新川東部へようこそ!

新川神社(しんかわじんじゃ)

風化されていく歴史は残念 グラウンドと成り果てた「新川神社」に涙あり

<未来への礎となることを信じ、戦地に散っていった404の英霊を祀る新川神社。かつてこの地で、出征する兵士を見送るたくさんの涙があった。「至誠」と刻まれた軍人像(昭和9年・1934建立)は、決して歴史を忘れないために今日も南を向いている> 千福町1丁目の大部分を占める羽久手公園。野球グラウンドのフェンス先に大きな鳥居が見える。 羽久手公園は、戦後に「新川神社」の境内を公園敷地として転化したものである。 線路沿いの細い道を行く。新川神社は公園の片隅に小さく残っていた。鳥居の先は、すぐグラウンドという異様な風景。参道を潰されているのである。 神社という敬うべき存在が、何故これ程まで酷い仕打ちを受けるのか?それは新川神社が「英霊を祀る神社」である故。 かつてこの新川神社は、出征する兵士を見送る場所だった。ここから戦地に赴いた404名の兵士は2度と新川の土を踏む事はなかった。 境内奥にある慰霊塔には、壁面に隙間なく英霊達の名が刻まれている。 「誰のために今を生きるのか」そんな思いが胸中に浮かぶのである。

<年に一度、新川神社に集結する11のチャラポコ車。神前で始まるチャラポコの囃子は、新川を発展させた先人への感謝を表す。かつて出征者を見送る為に集まった新川神社も、今日は新川の未来を担う子供達で賑やかに。英霊達の死も決して無駄ではなかったと伝えたい> 新川神社に祀られているのは、英霊404柱の他に、新川の発展に深く寄与した岡本兵松・角谷安兵衛・服部長七である。 毎年5月になると新川神社に、天王・道場山・千福・浜尾・東山・西山・東松江・田尻・久沓・鶴ヶ崎・西松江という新川11の地区住民が一同に会する。 英霊の御霊を弔い、先人達に感謝する新川神社の大祭である。 11台のチャラポコ車が、羽久手グラウンドに集結する姿は実に壮観。神前で深く一礼し、各地区に昔から伝わるチャラポコの囃子を一地区ごとに披露。 順番を終え、木陰で輪になり昼食を楽しむ子供達。先人達の努力・英霊達の犠牲は決して無駄ではなかったのである。

二宮金次郎さんの陰歴史に関するミニ知識

新川神社(しんかわじんじゃ) 昭和2年(1927)5月24日、新川出身の日露・日清戦争戦死者と服部長七、岡本兵松、角谷安兵衛を祀る「忠魂社」として創建。 戦中、新川各地区から集まった出征兵士たちはこの忠魂社で見送りを受け、激戦地へと向かった。また境内にあった「楠木正成」銅像は金属供出により取り壊される。 戦後、GHQの指導により、「宗教法人・新川神社」へと変わる。 慰霊塔は昭和28年(1953)11月20日に大東亜戦争以降の戦没者遺族によって建てられた。 羽久手グラウンドは昭和25年(1950)3月27日に神社境内を流用し、碧南市初の野球グラウンドとして竣工し、記念としてプロ野球選手による野球教室が開かれた。

ヘボト自画像ヘボトの「如是我聞(にょぜがもん)」

閑静な住宅街の道

「戦地へ赴く道」

昭和2年(1927)5月24日に、新川築出身の日清・日露戦争の戦死者及び、新川発展の功労者である岡本兵松・服部長七・角谷安兵衛を祀る忠魂社として創建された新川神社。 新川各地区から集まった出征兵士は、新川神社で見送りを受け、新川町駅より戦地へと向かった。 だが創建当時、新川神社と新川町駅を結ぶ道はなく、線路づたいに駅へと歩いていった。 戦争が拡大するに従い、出征兵士の数が増え、不便を感じて支那事変の起こり始めた昭和12年(1937)頃に道路を造成する。 その道路が新川町駅北の踏切を渡り、北へと向かう道である。今では住宅の中の静かな道となり、過去を知る人は少ない。 赤紙で招集され、この道から戦地へと向かい、異国の地で散っていった。昭和17年(1942)から昭和23年(1948)にかけての新川出身・軍人戦死病者は346人と碧南市域の地区では最も多かった。

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