愛知県碧南市 歴史に隠された壮大なドラマを予感 私の未来は「おばばさま」に!
<酒井家の姫が長田家に嫁ぎ、隠居後に相談所を開く。村人達からは「おばばさま」と呼ばれ、頼りにされた。カリスマ性を想像させる姿・由緒に新たな碧南市史のヒロインとして脚光を浴びる!?> 西浜町の路地を入り、小さな青果店を過ぎ、西へと向かう。弘法大師像が段列に並ぶ御堂と「三本木稲荷明神」の赤い幟の間に煉瓦敷きの道が導く。 先には新旧の増築物を繋げたような不思議な御堂。中からはおばあちゃん達の談笑する声。憩いの空間を邪魔してはダメと、しばし古井戸の傍らで待つ。 静かになった御堂へ一礼をし、進み入れば、長年の線香・蝋燭により煤けた世界。薄暗いなか、目を凝らしてみれば、壇上に不思議な形の石像。 台座部分は16センチ高、おそらく本体よりも新しい。本体部分は高さ37センチ、幅14センチ、周りの壁よりさらに煤けている。 石に彫られた姿がこれまた奇妙。お椀型の髪型、腰巻きをしてマントを被り、差し出した両手はボクサーの構えにも見える。 さらに右肩、背中には太刀か槍か…。これが通称「おばばさま」である。 徳川家康の家臣であった酒井家の姫が、大浜熊野大神社の神官・長田家に嫁ぎ、隠居後にこの地で庶民の相談事に応じていたという。 なにやら時代劇の演題にもなりそうな話である。 没後も長らく信仰を集めるカリスマ性、そして石像の姿。かなり「破天荒な」女性ではなかっただろうか。 物語を想像させる「おばばさま」、新たな碧南市史のヒロインとして注目される日は近い。
<大浜熊野大神社の歴代神官を務めた長田家に嫁いだ婦人達の眠る「姥神」。応保2年(1162)、長田親致が棚尾の地に移り住んだことに始まる長田一族の歴史。約850年の時を経ても第一線で活躍する子孫達。これは何か秘密がある!?> 大浜熊野大神社の北東にある地域、宮町4丁目あたりは旧字名「姥神」といわれていた。 地名の由来は、大浜熊野大神社の神官、代々の婦人を葬った墓地であったことからと伝えられている。 時代はいつ頃のことか? 歴史資料の記述にも、古老の記憶にも旧字・姥神に墳墓らしき遺構を示すものはない。 ただ、1980年代後半までは姥神近辺に15メートル超の老松が一本、不思議に存在したことは私も覚えている。 その老松が墳墓が存在した事実を示すものかどうかは、住宅の建ち並ぶ今となっては不明。 大浜の「正覚院」(1168年の大浜熊野大神社創建と同時に建立とされ、檀家は長田家のみの不思議な寺)と共に、実に興味深い話ではあるが…。 長田親致から始まり、約850年の時を経ても没落することもなく、各地で活躍をみせる子孫達。 姥神の所在が消えようとも、何ら問題がないのかも知れない。
昭和4年発行の大浜町史にある一文。 「神社仏閣の寄付といえば神官や住職から何度も強要されて仕方無しに寄付するが、そうでなければ店の広告に利用し、又は売名に戀々たる餘りにするものが多いが大浜町に於いてはそうではない。 全く報恩謝徳の現れとして自発的に行われるものばかりである」(大浜町史 昭和4年11月30日発行)。 これは大浜地域に神社・寺院が多く、またどこも立派な建物であることに対して、大浜町史の編者が見解を述べたものである。 ”口は悪いが、心持ちはさっぱりとして…”と評される大浜の気質。時に誤解され、大浜との分離・合併拒否の一因にもなった。 だが、「口の悪い」のは単なる照れ隠しである。「おばばさま」から程近い民家のブロック塀、格子状の窓を覗けば、本当に小さな弘法様。 昔ながらの路地を歩けば、必ずどこかに神仏への信仰心を垣間見る。それが大浜。 厚き人々が人の不幸を望むはずもない。きつい物言いに粋な切り返しが出来たならば、きっと笑顔が返ってくる。
< text • photo by heboto >