愛知県碧南市 2本の煙突を探せ!大正の建築様式が美しい「大浜火力発電所」
<高さ53メートルの煙突が今もそびえる。海岸線に大正12年(1923)、大浜火力発電所が建てられる。昭和12年(1937)の東南海地震で煙突が折れてしまう。西洋の街風景を想像させてしまう荘厳な建築。時代は自由を求め、人々は権利を求めた大正期の空気を垣間見せる> 碧南海浜水族館の駐車場からも見える奇妙な煙突。 大浜街道から西へ入った通り、中部電力変電所の厳重な金網の向こうは、まるで欧州の風景を思わせる。 今では鋳造の工場となっている建物は、かつての大浜火力発電所である。 大浜火力発電所は、まだこの辺りが海岸線であった時代の大正12年(1923)に竣工した。 翌年の大正13年(1924)に一号機稼働、昭和2年(1927)には2号機を増設する。 今も残る煙突は、昭和19年(1944)12月に起きた東南海地震により、上部が倒壊したままの姿。それでも高さは53メートルある。 よく見てみると、横に幾重にも筋が走り、煙突の構造が理解出来る。両端に美しき紋様を持つ建物、変電所側から眺めれば芝生の緑と相まってまるで西洋の街を思わせる。 大浜では大正期に美しい建物がいくつも造られた。自由を求め、人々の心の中に未来への希望があった時代。 旧・大浜火力発電所は、そんな時代に造られた建物の1つである。
<棚尾光輪寺住職・高木晃敬の撮影した幻灯ガラス原板にも写っていた造船所はこの場所。明治21年(1888)6月に衣浦造船所が設立された。明治38年(1905)頃に廃業するが、昭和12年(1937)に復活。一時は300トン級の船も造られた> 大浜上の熊野神社の西にある堤防は、かつての海岸線である。その堤防沿いに200メートルほど南下した場所、建築会社の資材置き場となっている所が衣浦造船所跡である。 明治21年(1888)6月に当時としては珍しい株式会社として成立、35人の職人を擁し、西洋型帆船を建造した。 新川の豪商、岡本八右衛門の船も修理したという。初期は亀崎の船主達が経営していたが、のちに鶴ヶ崎の岡本利助が引き継ぐことになる。 明治38年(1905)に廃業してしまうが、昭和12年(1937)に再開。ある時には300トン級の船「豊田丸」が建造され、進水式の思い出を今も語る人がいる。 だが戦後の埋め立て造成により、造船所は消えた。棚尾光輪寺住職・高木晃敬が明治23年(1890)に衣浦造船所を撮影した写真が今でも残り、当時の様子をうかがい知ることが出来る。 東から西の衣浦造船所ドックを撮ったもので、西洋帆船と共に日本家屋が一軒写っている。 現在、衣浦造船所跡とされる場所にも、高木晃敬の撮影した写真にある日本家屋とそっくりの屋敷がある。歴史好きには同じものかもと期待してしまう。<※注意:現在その日本家屋はありません> >
臨海体育館の東、旧・農業協ビルのある辺りは、現在では中松町という。 だが、明治38年(1905)の平和用水敷設に従う区画整理前の地名は「墓台」となっている。 この墓台とは、何を意味しているのか?鎌倉時代の人骨・遺跡が出土したという話も聞く。 近くには「上人・那智・烏御堂・観音堂・六共」といった旧字名が存在していた。 この一帯は単なる墓地ではなく、何か宗教的に重要な地域ではなかったのか。謎である。 また大浜には不思議な里謡が伝わっている。「ここは大浜 向かいは天王 こいてうれしや 二ッ池」と。 二ッ池とは旧農協ビルから少し北東へ行った場所には、大きな池があった。里謡に”こいてうれしや”とあるように大浜の村人達は池を恐れていた事が伺える。 二ッ池の何に恐怖を抱いたのかは、全く不明である。宗教的な意味合いある旧字、そして二つ池…大浜のミステリーゾーンではないか。
< text • photo by heboto >