愛知県碧南市 大浜陣屋跡で発見された「菱形」の紋様 奇妙な一致の謎を追う
<明和5年(1768)に大浜藩の領主となった水野忠友は、翌年の明和6年(1769)に大浜陣屋をつくる。羽根町一帯を囲むほどの規模があったと推測される。明治20年(1887)完全に取り壊され、現在は「陣屋跡ちびっこ広場」として名を残す> 羽根町1丁目の住宅街にひっそりとある「陣屋跡ちびっ子広場」は、明和5年(1768)11月5日に大浜の領主となった水野忠友が、翌、明和6年(1679)に建設した大浜陣屋のあった場所である。 陣屋の敷地は、ほぼ羽根町全体であったとされる。安永6年(1777)、水野忠友は沼津城主となり、大浜の沼津藩となった。 新しい時代を迎えた明治2年(1868)に大浜陣屋は菊間藩出張所、明治10年(1877)には大浜村戸長役場となるが、明治20年(1887)に陣屋の建物は全て取り壊された。 明治44年(1911)5月28日、大浜陣屋に勤めていた武士達が、陣屋建設を記念して植えられた記念松の脇に青銅製矢筒片の跡碑を建てた。 惜しくも第二次世界大戦中に資材として供出された。記念松は昭和33年(1958)に枯れてしまう。 が、翌年、大浜陣屋の歴史を未来へと伝えるべく有志が集い、資金を持ち寄って朽ちていた記念碑を修繕した。
<大浜陣屋と大浜警察署の共通点は菱形。大浜にはこの菱形に込められた何かがあるのかも知れない。そんなロマンを胸に大浜を歩いてみたい。さあ、探そう!意外な場所にまだ菱形が隠されているかも?!> 陣屋跡ちびっ子広場にある記念碑は大浜陣屋の武士達が、唯一残った記念松の傍らに昔を偲んで建てた。 今でも碧南市の歴史を取り扱う書物などには、記念碑の前で裃を着込み、腰に刀を携えた武士達の堂々とした姿を見る事が出来る。 残念な事に戦時中、金属供出を理由に打ち壊されて長らく放置されていたが、昭和34年2月8日(1959)に大浜陣屋址保存会の人々によって修繕された。 記念の青銅製プレートには、大浜陣屋に関係した人々の子孫かと思われる苗字も見える。 修繕された時、青銅製矢筒の台座となっていた石は再利用されることなく、現在も記念碑の傍らにある。 その石の角、面取りされた部分に対角線16センチの菱形が2つ。よく見れば、記念碑にも縦に2つの菱形。 菱形といえば見覚えがある。旧大浜警察署の塔にある菱形。共通する菱形は何を表すのかは謎である。 菱形を探して大浜を歩けば、思わぬ発見があるかも。
大浜の常行院には、大浜陣屋の裏門が常行院の山門として移築され残っている。 大浜陣屋の関係する建築物は、大浜陣屋が廃止となった後、一部転用された。 表門は高浜・専修坊の山門として移築された。また大浜陣屋の長屋一部は、明治5年(1872)に貧民救療・医術研究のために発足した団体、「協療社」(きょうりょうしゃ)の建物として明治18年(1885)まで利用された。 常行院の門は、最初、松江にあった代官所の門として新築されたもの。明和5年(1768)に水野忠友が大浜藩主となり陣屋をつくる時に松江代官所は廃止となり、門が転用される。 絵地図によれば、この裏門は今の記念碑の北東に位置していたようで、現在の「好味屋」東の幅130センチの小道が相当すると推測するのだが、真相はいかに。
< text • photo by heboto >