愛知県碧南市 あの「どんどん娘」は再び現れるのか? 「栄願寺」を訪ねる

碧南市西端地区へようこそ!

栄願寺 (えいがんじ)

西端に移住した「杉浦」一族が創建 「蓮如上人数珠掛けの松」が有名

コンクリの本堂

<碧南市の「杉浦」姓は、やはり西端からか?!築塀に囲まれ、強固なコンクリートの本堂を持つ栄願寺。境内には「蓮如上人・数珠掛けの松」があり、奇跡の神童「如光」とも関係の深い寺院> 碧南市・西端に多い苗字には、「原田」・「鳥居」、そして「杉浦」である。 西端における杉浦一族の歴史は、正中年間(1324~1326)に「杉浦壱岐守和市義遠」が美作(岡山県)から一族と共に西端に移り住んだ事による。 応仁2年(1468)に杉浦一族5代目の杉浦四郎左衛門が蓮如上人の教えに帰依して、道場を建立したのが「帰教山・栄願寺」の始まり。 もとは「西畠道場」ともいった。永正15年(1518)に唯願寺と寺名を改め、寛永15年(1638)には、現在の場所に移転して、その時に栄願寺と改称することになる。 ちなみに元の場所には「応仁寺」が建立されている。油ヶ淵より現れたという「如光」は、 この栄願寺を創建した杉浦一族の出身であるという(忽然と現れた如光を養子に迎えたという説もあり)。

庫裏の鱗のような屋根

<「巨大な魚類の鱗のよう」と形容される栄願寺・庫裏のまだら瓦の屋根。遠くにいても近くに行っても、圧倒される存在感。西端に君臨してきた一族の誇りか、威風堂々とした庫裏は栄願寺の力を示す> 先の第二次世界大戦中に起きた東南海地震・三河地震により、西端は甚大な被害を受けた。 故に地震に強いとされる鉄筋コンクリート製の本堂建設は必然的な事であり、 栄願寺も多分に漏れない。しかし、悲観する事はない。栄願寺には素晴らしい建造物があるのだ。 本堂向かって右手の「庫裏」である。一枚の瓦がまるでモザイク紋様とも見える巨大な屋根に、ただ圧倒される。 おそらく碧南一の規模を誇る庫裏ではなかろうか。西端・栄願寺の力、そして栄願寺を支える檀家衆の結束を誇示する建造物である。

ヘボト自画像ヘボトの「如是我聞(にょぜがもん)」

山門と蓮如上人・数珠掛けの松

「栄願寺の山門から見える風景」

栄願寺の前身である「唯願寺(西畠道場)」は現在の応仁寺の場所にあった。 移転したのは寛永15年(1638)である。寺院が移転する理由は何か? 寛永15年といえば、矢作川開削(慶長10年・西暦1605年)の33年後、入江の入口を閉じ、油ヶ淵が出来る正保元年(1644)の6年前である。 現在の栄願寺・山門を境内から臨む。山門越しに見える風景は、「遙か昔に遠方まで見渡せた」感を思わせる未だ美しき世界。これが移転の理由か…。 応仁2年(1468)に西端へと上陸した蓮如上人は眼前の風景を見て、「畷をへだてて遙かに西畠村の炊烟をのぞむ」と言葉を残した。素晴らしき景観が多く点在する西端、蓮如上人は数珠を松に掛けてしまったのかも知れない。ちなみに現在の数珠掛け松は2代目である。

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