愛知県碧南市 「昔は綺麗な水が流れとったげなん」と語る 「前浜の水路跡」
<いつか見た写真が気になる。昭和30年代というのに、その様子はまるで明治の時代。写真の場所へと向かってみれば、面影なし。だがこの欧州の中央広場を思わせる構造は一体なんだ!?> 平等寺本堂の向拝で老婦たちが昔話に花を咲かせていた。苦節を経てきた前浜のお婆ちゃんたちである。 私の大陸的な風貌に臆することなく、毅然と視線を向ける様子に乗り越えてきた人生の一端を垣間見る。 私の目的が分かると、「あったよ~なあへえ」と屈託のない笑顔。私は一枚の写真を頼りにある場所を探していた。 昭和30年代の前浜集落を写したもので、集落の間に水路が流れ、両岸沿いに痩せた木々が並ぶ。 藁製の袋に砂を詰めて土嚢とし、石垣の代わりとした様子。キャプションがなければ、明治時代の風景と見紛ふ写真である。 お婆ちゃん達が教えてくれた通り、前浜集落の本通りともいうべき位置にあった。幅員20メートル近い大きな道路。 中央にはゼブラゾーンがあり、そこが水路の跡らしい。 平等寺の本堂が大正14年(1925)に再建された際、工事に携わった人達はこの水路で水を浴び、疲れを癒したと聞く。 しかし、この道路は集落の規模に対して、その大きさは不相応ではないか。欧州の旧市街地には必ず中央広場がある。 前浜もその都市構造に見習ったというのか? 前浜は、どこか自由都市的な風土を感じさせる。
<明治の地租改正をきっかけに小作争議が起こる。地主対小作人の闘いは63年間続き、小作人は勝利した。前浜から始まった小作争議は他の新田にも波及し影響を与える。諦めない精神は前浜の成り立ちにあるのか? 戦後に全国で行われた農地改革以前の出来事である> 前浜の集落を歩けば、あることに気づく。どの民家も十分な敷地を持ち、囲み形に家屋を構築する「長屋門」形式の屋敷が目立つのだ。 市街より地価が安いとはいえ、これは前浜集落が富裕層の多い地域であることを示す。 画期的な村請という制度により、庶民にもチャンスが与えられた前浜新田。しかし時代の変換と共に大地主と「水呑百姓」という主従関係に落ち着いてしまう。 明治10年(1877)、地租改正によって増税された分を地主達は小作料に転嫁させた。これに怒った小作人たちは団結し、小作争議へと発展した。 後の大正8年(1919)にも再び対立は深まる。昭和15年(1940)になって地主が小作人に土地を売り渡すことで、63年間続いた争いは解決することとなった。 戦後の農地改革よりも数年前の出来事である。 村請という成り立ちが小作人に勇気を与えたのかは、定かではない。だが、堅実に働いてきた結果が、今日の裕福な前浜であるのは確かだ。
前浜新田は伏見屋新田や平七新田などと違い、村請(むらうけ)により、新田開発を行ってきたとされる。 文化4年(1807)に大浜村と棚尾村が村請として願い出る。文化8年(1811)に棚尾村の名主となった斉藤倭助がさらに計画を推し進めるが許可は降りず。 文化9年(1812)になって、事業家であった「中根又左衛門」と藤次郎が開発資金を投資したことにより、ようやく幕府から許可が下りたのだ。 したがって、文化10年(1813)10月に行われた新田の配分を地代で見れば、大浜村(249両)、棚尾村(249両)、藤次郎(250両)、中根又左衛門(188両)となっている。 だが、天保13年(1842)に前浜新田は天領となり、大浜・棚尾・平七・伏見屋の四ヶ村持ちとなる。 この「中根又左右衛門」なる人物は、おそらく6代目の親孝で、俳人「中根楳堂」として全国的にも名の知れた存在。刈谷の中島秋挙とも交流があった。 前浜集落の道を北に上がれば、堤防沿いに一本松のある場所が見えるはずだ。 そこは、天保12年(1841)4月2日に57歳で没した中根楳堂こと、中根又左衛門(法名・祐親)の眠る「中根墓地」である。
< text • photo by heboto >