愛知県碧南市 前浜新田開発の功労者「斉藤倭助」が建立した「平等寺」
<文化10年、祖父の夢であった「前浜新田」を斉藤倭助は完成させる。犠牲となった生き物の霊を弔うために「平等寺」が建てられる。自らの資産を新田開発に投じ、波乱の生涯をいきた斉藤倭助の存在を前浜の人々は決して忘れない> 特有の強い日差しが白壁に反射し、たまらず目を細める。新田開発により犠牲となった生き物の霊を弔うために建てられた寺院「寂照山・平等寺」にやって来た。 平成13年(2001)7月に山門、水屋、鐘楼堂は改築され、未だ輝きに満ちている。 祖父・和兵衛の諦めた新田開発の夢を、斉藤倭助は実現させた。文政10年(1827)5月に完成した「前浜新田」である。 翌年の文政11年(1828)には試作を行えるほどになり、感謝の表れか、この新田を「斉倭新田」と呼ぶ人もいた。 平等寺のある場所は、前浜新田開発の功により、沼津藩主から斉藤和助に与えられた地である。 平等寺の境内に高さ15メートルほどの立派な松が一本、存在を表している。大きさから、前浜新田が完成した当時に植えられたものではないかと推測する。 斉藤倭助は、養子先に離縁されたり、棚尾村の名主となり、また新田開発のための借財を負い、破産に近い状態に陥る等、波乱の生涯を送った。 しかし、決して斉藤倭助の胸に後悔の念はないだろう。 広大な前浜新田の田畑には、今や一面、緑の作物が実る。その見渡せる一番の場所に開拓者の子孫達が建てた「前浜新田開墾 斉藤倭助翁頌碑」が建っている。
<長さ100メートルの道路は「前浜ふれあい通り」と呼ばれている。大正14年の平等寺本堂再建を巡るエピソード。互いに牽制し合っていた大浜・棚尾・旭がひとつになり、困る前浜を助ける> 平等寺の山門前には「前浜ふれあい通り」と名付けられた道がある。長さ100メートルに渡って、幅員車一台分の狭い道が堤防方面へと続いている。半分の区間には色付き煉瓦が施され、近代的な景観。 「ふれあい」とはいかなる意図か、定かではない。だが、前浜には面白いエピソードが今も伝えられている。 平等寺の本堂を再建することとなった。残念なことに当時の前浜集落の力では資金・労力が足りず、再建は難しいとされた。 その報を聞いた大浜・棚尾・旭の人々が「前浜が困っているならば」と援助を申し出る。 どこも「おらが故郷が一番!」と自負のある地域。旭村の属する東浦の人々は地突きの朝に「ヤトマカセ」を踊りながら行進してきたという。 互いの競争心が効を成し、平等寺本堂は大正14年(1925)に無事落成する。前浜の人々は大いに喜び、また協力した大浜・棚尾・旭の人々も互いを讃え合う。 互いを牽制してきた各町村がひとつになり、成し得たことは歴史的に快挙な出来事である。 「ふれあい」と名付けられた通りを歩く。これといって何もない通りだが、私には手を取り、協力し合った人々の姿・表情が浮かんでくるのである。
斎藤倭助(さいとうわすけ) 棚尾の名主・斎藤佳道の次男として寛政初年頃、大浜村に生まれる。 文化4年(1807)に岡崎松葉町の庄屋、小塚助右衛門の養子となるが、諸事情により養子縁組を解消され棚尾村へ戻る。 文化8年(1811)に父より棚尾の名主を継ぎ、弟の倭兵衛と共に祖父の和兵衛が諦めた新田開発の夢を叶えるべく奔走。 新田開発は村請(村人全員で負担する方法)であったが、資金が不足する時は、自費を投じて文政11年(1828)に完成させた。 天保3年(1832)に領主より与えられた土地に教化道場(後の平等寺)を建てる。嘉永5年(1852)、63歳で没。 河方町には斎藤倭助の功績を讃える頌徳碑、また棚尾・八柱神社には斎藤倭助が寄進した灯籠がある。
二ツ橋を渡り、辻となる地点の南側に位置する集落は昔「葭生場」と呼ばれ、前浜新田とは以前は別の村であった。 別名「十町歩」ともいわれ、前浜新田と同じく海であったが、文政7年(1824)から伏見屋新田が潮浚えをした際に出た土砂を投じ、土地が生成されていった。 地主も碧海群川島村の太田佐兵衛や神有の山田新田であり、前浜新田とは経緯が異なっていた。 明治11年(1878)12月27日に前浜新田と合併し「前浜新田村」となる。 葭生場には八幡社があったが、合併した時に氏神は安城へ合祀して、拝殿は平七の神明社に移転した。 合併する以前は碧南市域最小の村として、わずか9戸であった。
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