愛知県碧南市 「幸町」交差点のお地蔵さんは目を閉じて願う

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幸町交差点のお地蔵さん

両手を合わせた地蔵さんと箱の中の「小さな地蔵」さん 静かに南を向く

新鮮な花がいつも手向けられるお地蔵さん

<幸町交差点の一画に立つお地蔵様。何時の時代に建てられたか不明。鈴の収まる小箱の中に小さな白いお地蔵様。石柱のお地蔵様と一緒に南を向いて、往来激しい交差点を見守っている> 浜尾橋が出来て以来、以前にも増して交通量が増加した「幸町」交差点。その一画、道と道に挟まれた東の三角地に、高さ120センチの石柱が立っている。 南面には、立体的に浮き彫りされたお地蔵様が鎮座していた。光輪に囲まれたお地蔵様の顔は、両目を閉じ、慈しみの表情。 合わせられた手はコンクリで補修されている。お地蔵様の右脇には、「南 棚尾道 寒念佛供養」と刻まれる文字が。よく見ると他の面にも、 「右 平坂道」「左 辻道」とあった。古来よりこの場所は、交通の要所であったのだろう。鈴の収まる箱のなかに小さなお地蔵さんを見つけた。 人々の願いを叶えるべく、時々消えるという噂があるらしい。

低く広がった屋根の建物

<台地の中ほどに位置し、松の生い茂る山だった事から「中山」と名付けられた。寛文元年(1661)に7軒の集落。多くが「生田」姓を名乗る理由とは?棚尾村からの独立を目指すが実現せず> 幸町交差点に立つお地蔵さんから北東にある集落「中山」。 中山の名の由来は、棚尾から続く台地上の中間地点で、松の密集する山であった事から、「中山」と名が付いた。 寛文年間(1661~1673)以前に生田新十郎所有の松山を、入植者に貸し与え、開墾させた事が歴史の始まり。 その際、入植者には「生田」姓を名乗らせたという。長く大浜村の枝郷となっていたが、弘化3年(1846)に棚尾村の一部となった。 神明社の山林を巡って、明治31年(1891)に分村運動が起こるが、実現する事はなかった。

ヘボト自画像ヘボトの「如是我聞(にょぜがもん)」

坂田精肉店脇の小道

「幸町交差点が複雑な意味」

道標のお地蔵さんがたつ「幸町」交差点は、浜尾橋から棚尾へ向かう道、道場山から伏見、中畑橋へ向かう道が交差する地点。 だが、幸町交差点には、もう一つ道が存在する。その道はお地蔵さんの左脇に位置する車一台がやっと通れる幅の狭い道。 先は100メートル程で右に折れ、伏見へ向かう道と合流する。 この道は、明治38年(1905)に行われた平和用水敷設に従う区画整理以前に存在した道の名残。 分断される以前は中山大地蔵前まで続いていた。今でもイクタフード本店向かい、坂田精肉店脇に続きの道が存在している。 発展著しいこの辺り、昔の雰囲気を今に残す貴重な道である。

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