愛知県碧南市 頑なに郷土を守った精神を決して忘れない 「旭村役場跡」
<「他とは産業、人情風俗が異なる」と自分たちで旭村を誕生させてしまった。昭和5年に人々の愛郷精神の結晶ともいえる旭村役場が完成。昭和23年の碧南市制への参加により旭役場は役目を終え、昭和47年に跡形もなく取り壊された> 平七と鷲塚を結ぶ県道の米津・碧南線にある「伏見町北」交差点を東に入り200メートル程行った地点に、かつて旭村役場があった。 明治39年(1906)、愛知県は大浜、新川、棚尾、鷲塚、伏見屋、志貴崎など、つまり現在の碧南市で西端を除く全域の町村を合併させる「新浜町」計画を打ち立てた。 大浜・称名寺などで合併に関する説明会が催され、その機運は高まりつつあった。しかし、鷲塚・伏見屋・志貴崎の3ヶ村が合併に反対し、自分たちだけで「旭村」を成立させてしまう。 「大浜や新川、棚尾とは産業、人情風俗が異なる」という理由だった。 昭和5年(1930)に旭村役場が落成した際の人々の喜びが旭村誌に残されている。 「茲に於いて昭和五年五月十日 めでたく落成移庁式を挙行せり。嗚呼平和の殿堂よ。平和の我郷よ。長しへに幸多かれ」(旭村誌・第三節/平和の殿堂より)と。先人の想い、今何処である。
<賛成610票、反対458票、無効19票の結果、保留の立場を取っていた旭村は市制参加を申し出る。独自の道を歩もうとした熱き愛郷精神は今どこへいったのだろう。かつて道標となった秋葉山常夜燈も未だ行方不明> 碧南市は昭和23年(1948)4月5日に誕生した。だがその経緯は容易ではなかったのである。 市制移行の会議において第2回目が開かれた時点で、大浜・新川・棚尾の3町は賛成したが、唯一、旭村だけが「保留」の立場を取った。 理由は商工業発展の見通しがたたないが故に。旭村村会議員のもとへ、幾度となく説得に訪れる合併準備委員。 火鉢を囲み3時間も睨み合い、一向に話が進展しない日々が続いた。ようやく熱意に押された旭村は昭和22年(1947)2月11日の夜、村民投票を行い、 結果は賛成610票、反対458票、無効19票。旭村の伊藤村長は結果を受け、正式に市制参加を申し出る。 明治の頃より熱き愛郷精神をみせた旭村。昭和47年(1972)に旭村役場建物が取り壊され、平成16年(2004)には「三河旭」駅も消滅。 かつて伏見町北交差点には秋葉山・常夜燈があり、中畑より来る人はその明かりを頼りにしたという。 その行方を尋ねても知る人もいない。頑ななまでの愛郷の精神は「遠き日の出来事」となる。
旭村(あさひむら) 明治39年(1906)に3つの村、鷲塚・伏見屋・志貴崎が合併して旭村が出来る。 志貴崎村(しきざきむら)とは、明治22年(1889)に平七村・前浜新田村・伏見屋新田村・伏見屋外新田村が合併して出来た村である。 ただし、伏見屋新田村は志貴崎村合併後、不利な条件が多かった為、わずか1年11ヶ月で分村し、新たに伏見屋村となった経緯がある。 愛知県の推進する「新浜町計画」に対して反対を表明し、独自の村として成立させた。 旭村誕生当時の戸数は1066戸。昭和23年(1948)4月には他の町村と合併し碧南市となる。 旭村役場は碧南市誕生後も公民館や刈谷保健所碧南出張所として使用されるが、昭和47年(1972)の区画整理の際に取り壊された。
中畑へと向かう県道、平坂・福清水線の「伏見屋」交差点手前に一本松の存在。 その傘下に「辨財天」の石標あり。池の中に浮かぶ御堂へと導く石橋。ここが有名な伏見屋の弁天さんである。 伏見屋新田の大地主であった2代目「市古七郎平永昌」が大堤町に移住した際に屋敷に祀る。 後の文政5年(1822)に4代目の七郎平貞造が伏見屋へ移住し、弁財天もまた新しい屋敷で祀った。 大堤町から伏見屋までの移動は、大きいが為に大八車では運搬出来ず、洪水の時にたらいに載せて運んだという話。 市古家の屋敷神であった弁財天も、明治19年(1886)からは伏見屋の村で祀ることになる。 京都の仏師「文弥」の作といわれる。6本の腕にそれぞれ宝具を持つ特異な姿であるが、祭礼時もその姿を拝むことは叶わず。 だが、収められる厨子も簡素だが、立派なもので見るだけの価値は十分ある。
< text • photo by heboto >