愛知県碧南市 東浦の森岡に別れを告げ 大府の入口 「おしも井戸」へ
<行く先々で宿泊を断られたお坊さんは、石ヶ瀬の老婆の宅に泊めてもらうことに。目が悪く、井戸のない生活を不憫に思ったお坊さんが奇跡を起こす。その正体は弘法大師だった> 蒲鉾のような落差のある東海道線の石ヶ瀬跨線橋を渡ると、旧・横根村を経て豊明方面へと向かう道、 大府の旧市街を通り抜ける道とに分かれる辻が現れる。その辻の場所には「おしも井戸」と書かれた看板。 弘法大師が目の悪い「おしも婆さん」のために起こした奇跡の話が記されている。 弘法大師を祀る小さな御堂脇には、現在でもチョロチョロと水が滴り落ちている。 「刈谷に蚊居れ、晩豆なるな」刈谷で宿泊を断られた弘法大師の言葉。実に深い意味である。
<自動車販売店向かいにある車両進入禁止の標識。大府市内の大浜街道ルートは諸説あるが、今回は刈谷市郷土資料館が所蔵する明治24年測量の地図をもとに大浜街道を行く> おしも井戸のある辻を左に行く。自動車販売店の向かいに車両進入禁止の赤い標識。意味ありげな蛇行を見せ、小道が奥へと続いている。 大浜街道を探る上でもっとも難解な場所が旧・大府村ルート。天保12年(1841)の大府村絵地図による、現行の県道50号そのままという説。 昭和30年代に整備したという話もあり、疑問が残る。 愛知県の街道を扱った書籍によると、現NTT前から熱田神社に向けて存在している道が大浜街道という説。これは延命寺往来の道ではないか。 そこで刈谷郷土資料館所蔵の明治24年(1891)地図。太枠で示された道筋は現在でも残っている。 太枠とは何を意図したものか?答えは大浜街道である。車両進入禁止の赤い標識こそ、大浜街道の入口なのである。
「八幡社の境内が小さい理由」 おしも井戸の手前、石ヶ瀬跨線橋から名古屋方面へ向かう東海道線に目を向けますと、左手に緑生い茂る小山が見えます。 これは「若宮八幡社」です。かつては三反程(約2975平方メートル)の敷地を持ち、遠くまで見渡せる場所だったと聞きました。 人里離れ、鬱蒼と茂る境内の森は、実に神々しい雰囲気だったと伝えられています。明治20年(1887)に東海道線敷設にあたり、 境内の敷地を提供、さらに明治41年(1908)の複線化により敷地を譲渡した経緯。 現在の若宮八幡社は東海道線・武豊線に挟まれて、訪れる人も少ない静かな地となりました。 明治の急激な近代化を物語る若宮八幡社をぜひ訪れてみて下さい。
おしも井戸 於霜井戸。弘仁5年(814)弘法大師が石ヶ瀬の地に来た時、ひとりの老婆の家で一泊した。 井戸もなく、そのうえ目の悪かった老婆を気の毒に思った弘法大師は杖で地面を突いた。 清水が溢れ出、以来この清水の湧き出る場所をおしも井戸と呼んだ。
蛇行して標高を上げる大浜街道。両脇に時折、風雪を経た古い屋敷が現れる。 国道155号の高架下に社を発見。ここは大正時代に発見された「高山古墳」でもある。古墳のうえに社とは、昔からこの場所は神聖な地であったに違いない。 鏡や土器が出土したが一体誰が古墳に眠っているのかは現在でも不明という。なにかしらミステリーを感じさせる話である。 懐かしい雰囲気を伝える旅館前を通りすぎ、さらに先へと進むと「止まれ」の標識が見え、和菓子屋さん前に出た。かつてこの交差点は東西南北の主要道が集まる地であったという。行き止まりとなる西に足を進めれば、かつて踏切際で多くの人々の安全を見守ったお地蔵さんが大樹に守られ余生を送っている。 ■ 第24回 「ただ静かな踏切跡に地蔵」 へ
< text • photo by heboto >