愛知県碧南市 幕府非公認の渡し船を管理 寺名は偶然? 「越境寺」を訪ねて

旅する大浜街道

第18回 とにかく高い場所へ・2つの寺院

大浜街道を直進すれば越境寺に辿り着く 於大の方に由来する善導寺

<3つの橋が出来る以前、刈谷と緒川の間には黙認された渡し船あり。管理していたのは越境寺。天正3年(1553)建立の本堂は不思議。僕らの御先祖様も戸惑った?> 東浦村道路元標から西へ入る道へ。標高を上げると共に道幅は細くなり鬱蒼と生い茂る森の中へ。遺跡のような石段が導いた先に真新しい鐘楼門が出迎えた。 顕本法華宗・越境寺である。天正3年(1553)に建立されたという本堂、中を覗けば簾がいくつも降ろされていた。 碧南では馴染みのない様式に戸惑う。この越境寺には、大浜街道と縁深い話がある。 尾張と三河を結ぶ市原橋・境川橋・緒川橋が存在していない時代、 刈谷(市原)・緒川間に渡し船が設けられ、渡し賃から「6文の渡し」と呼ばれていた。 その渡しを管理していたのがこの越境寺だった。 当時、藩公認の渡しは亀崎のみ。この6文の渡しは暗黙の存在だったのである。

<これはもう寺院ではなく城。於大の方と一緒に並ぶ子・家康の位牌。境内から臨む緒川の町は、まだら瓦が重なる絶景かな> 越境寺からの帰り、静かな道を行けば見えてくる、善導寺と刻まれた石柱。小さな入口にそんなに大きな寺ではないんだなと、 見上げれば驚き。遙か先の鐘楼門からの石段は、3段階を経て足下へと続いていた。 しっかりと組まれた石垣を持つ白壁が、その石段を囲み上へと伸びている。 寺院に来たといった雰囲気ではなく、これはもはや城郭だろう。本堂横の御堂には、於大の方・家康の位牌が祀られていた。 経年を感じさせる艶消しの黒、位を現す大きさ、位牌から歴史の重みとも取れる威圧を感じてくる。

ヘボト自画像ヘボトの”ここもぜひ見ておきましょう”コーナー

「東浦の集落」 緒川の町は高い場所、南北に寺院が建ちならぶ。東に向かって標高を急激に下げる地形。古い集落に共通する事ですが、 まず人が住み始めるのは、高い場所、水害に悩まされる事のない場所であります。 この高い場所に位置する善導寺周辺も、古い民家の多くが軒先低く、 中には茅葺きだっただろうと思われる屋敷も目にしました。景観保護条例でもある? と地元の人に問いますが、全くないとの事。 この古い家並みが未だ残るのは、 緒川の人々の誇りの表れあり、自信の成せる結果でしょう。

二宮金次郎さんの陰知っていると便利、勉強しましょう!

越境寺 應永年間(1394~1428)に「日遵」が京より三河の地に赴き、緒川の地に僧坊を結ぶ。 應仁年間(1467~1469)には、現在地に越境寺を建立した際、緒川城主・水野家の子を迎え入れ、名を「日源」として越境寺第2世とした。 キリシタンを保護した事でも有名で、境内の庭には通称「キリシタン灯籠」があり、庫裡にはキリシタン達を匿ったという「隠し部屋」が現存するという。

次回予告です、お楽しみに!

古いお宅に映画宣伝ポスターが表示

第19回 「入海神社と傳宗院」

再び東浦村の道路元標ある場所まで戻る。「東浦街道」と重なった大浜街道を北上する。「東浦街道」にもいろいろと別名があるらしく、「師崎街道」と呼ばれたりもする。”師崎”とは知多半島先端にある地名。 街道は、今に残る「郷倉」を通り越し、刈谷市「元中根」からの県道50号(名古屋-碧南線)が東浦町へと入り、旧道である街道と交差する場所に着く。 懐かしさを覚える八百屋の風情、刈谷市の映画館を案内する映画宣伝のポスターと、昭和の雰囲気がここにも生きている。 さて、街道を進むと見えてくるのは「入海神社」の森。怪異を起こした「夜啼き石」があるという。 ■ 第19回 「入海神社と傳宗院」 へ

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