愛知県碧南市 市原湊の常夜燈が往時を偲ぶ 千年以上の歴史「市原神社」
<隠れた場所に常夜灯 大浜港と並ぶ程、名の知れた湊は もう跡形もなく どこが海岸線であったかも想像出来ない> 司町交差点から、東約60メートルの地点に出た。再び県道50号だ。このまま県道を進む形で大浜街道は行く。 お邪魔するのに躊躇する場所に、御堂と一緒に常夜灯。この場所が市原港として栄えた時代からあるもの。 常夜灯の制作年代は天保12(1841)年。しかし、どうだろう、市原港は全く痕跡もない。 大浜港と同じように栄えた市原港の末路、淋しい限り。大浜街道は、この常夜灯から向かいの小道、市原神社へと向かいます。
<何から何まで壮観な市原稲荷神社。創立は、なんと白雉4年(653)! 盛り沢山のサービス。そうなんだ!神社とは、現代におけるアミューズメントパークだったんだ!> 真っ赤な鳥居が現れたかと思うと、真っ赤な灯籠、奥にはこれまた真っ赤な拝殿。 近年、1350年祭が行われ、境内・拝殿など真新しいばかり。拝殿前に真ん丸の石。”稲荷の玉”といい、霊験あらたかなで、ナデナデすると 御利益に授かれるという。他にもサービス旺盛な市原稲荷神社。次は何かという、ドキドキ感、そしてトキメキ。似てる…遊園地にいる楽しい気持ちと。 ついうっかり、この市原稲荷神社で長居してしまう御先祖もきっといただろうなあ。
「海苔屋さんの道」 明治時代の地図によると、大浜街道は市原常夜灯から再び市原神社方面へと向かいます。現在でもその道の一部と見られるものが残っています。 市原常夜灯から北西へのびる道、右手に海苔屋さんがある小道がそうです。明治時代の地図では、この道沿いには 多くの住宅があり中規模の集落を形成していたようです。港近くという事もあり、この場所に花柳街があったという話も聞きました。
市原稲荷神社(いちはらいなりじんじゃ) 白雉4年(653)年、亀狭山(現在の亀城公園)に、おめでたい現象が現れ、その場所に社殿を造る。 永正10年(1513)に、刈谷城を築く為に現在地へと移転する。兵火により永禄3年(1560)、焼失するが、 永禄5年(1562)に再建される。祭神は、保食神・倉稲魂命・大山祇神です。
市原神社の西南入口、綺麗な桜の華の下に中島秋挙句碑が立つ。 「中島秋挙(なかじましゅうきょ)」なる人物は、安永2年(1773)熊村に生まれ、生涯独身で諸国をまわり、俳諧師として生きた人。 碧南市平七の「中根楳道」先生も中島秋挙の影響を色濃く受けた。この句碑は中島秋挙が文政9年(1826)に亡くなって13年後の天保10年(1839)に門下生達が建てた。 刻まれた句「夜わたしの 今に声あり華さかり」は、市原渡しの様子をうたったもの。さて、大浜街道はここで故郷「三河国」ともお別れである。 いよいよ街道は「尾張国」へと向かう。それにはまず、3つの川を越えなくては…。 ■ 第16回 「3つの川を渡る」 へ
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