愛知県碧南市 新川橋と水門橋の間には「陶運橋」という幻の橋が存在
<たしかに新川橋と水門橋の間には、陶運橋という名のが存在した。いつの間に人々の記憶から忘れ去られた陶運橋。あやしいのは名鉄三河線の使用する鉄橋だが、はたして陶運橋は?> 1910年発行の新川町誌には、確かにこう記されていた。「明治21年3月新設、長さ一七間・幅七尺」と。 そしていくつかの補修工事を経て、「昭和3年5月、新川橋架け替え時の仮橋を買い受けて架設した」とある。 一体、何の話か? 実は新川にかかっていた橋に「陶運橋」という名の橋が存在していたことである。 「陶運橋」とは、新川橋と水門橋とのあいだに架かっていた橋。一説によると名が示す通り、陶器・土器製造業者が使っていた橋という話もある。 新川橋と水門橋との間に、現在でも確かに橋はある。だが、それは名古屋鉄道「三河線」の走る鉄橋である。 三河線は大正3年(1914)2月5日に開通と大正時代に入ってからである。新川町史に「昭和3年に…」とあるから、鉄橋とは別に存在していた可能性もある。 だが、鉄橋の橋桁を含む造形は、赤煉瓦を多用したものであり、どこか「陶運橋」の匂いを漂わせる。 陶運橋は、一体どこへ行ってしまったのか?謎である。
宝永2年(1705)完成と一般的に伝えられる新川だが、実は完成年には諸説ある。 原因は、幕府に提出した計画より川幅が実際には狭かったため、工事のやり直しを命じられたからだ。 堀方橋の辺りは、小舟が転回出来ない程の狭い川幅であったという。 そんな歴史を持つ新川は大浜の堀川と同じく、川岸を石垣を使用して崩れるのを防いでいた。 敷き詰められた石垣に、それは壮観な眺めだったのだろうと想像する。 現在は、無難なコンクリートの護岸になってしまったは残念でもある。 水門橋右岸のコンクリート護岸から川面を覗けば、かつての石垣の一部と思われるものを発見し喜ぶ。 石が1つずつ積み上げられた簡素な階段。 大浜を凌ぐ勢いで発展、瓦や味噌、醤油を運んだ船が往来した時代を想像させる。
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