愛知県碧南市 大浜「称名寺」の壁には2本の桃色ライン 筋塀の由緒とは?

碧南色即是空

称名寺の筋塀 (しょうみょうじのすじべい)

黒色「5本線」は称名寺の寺格を誇示していた 価値の変遷により今は2本

桃色2本線の入る筋塀

<大浜の名刹を問われれば、まず名の挙がる「称名寺」。徳川家康の幼名「竹千代」も、この称名寺で行われた「夢想之連歌会」から。山門横の筋塀は現在、2本の桃色線。確かに見栄えは良いが、忘れられた史実あり。本来は称名寺の寺格を伝える最高位の「5本線」であったというのに> 暦応2年(1339)、大浜を支配していた「和田氏」によって創建された大浜の「称名寺」。 天文12年(1543)に称名寺にて「夢想之連歌会」が催された。 「神々のなかきうき世を守るかな」に対し、松平広忠は「めくりはひろき園のちよ竹」と脇句を詠む。 徳川家康の幼名がこの句から「竹千代」と命名されたことは案外知られていない。 付近には、「風呂の下」、「出口」、また南東へ600メートル行った先には「三ッ寮」という称名寺に関連した旧字名がかつて存在し、称名寺がいかに大きな力を誇っていたかを教えている。 そんな称名寺だが、ひとつ残念なことがある。山門横の筋塀である。 白漆喰に桃色のラインが2本横に走っている。だがこの2本線は本来間違い。 万治3年(1660)5月25日、天台宗の「妙法院」門跡より、御廟所・御霊屋・表門と共に筋塀二十間が寄付された。 筋塀にある筋は、その寺院の格式を表し、称名寺は最高位の黒色5本線が与えられたという。 昭和19年(1944)の東南海地震、昭和20年(1945)の三河地震と立て続けに災害に遭い、筋塀は崩壊する。 再建され、幾度と修復されるに従い、現在の2本線へ。 「5本線が寺格を表す」という史実は、時代を経て忘れ去られてしまった。

ヘボト自画像ヘボトの「有相無相(うそうむそう)」

「下乗」と刻まれた石標

「下乗の石柱」

”下乗”と刻まれた石柱がある。山門と並ぶもう一つの入口近く。この入口は、まだ大浜が砂浜に囲まれていた頃、船で西尾方面へと渡る往還へと続く。 この”下乗”石柱は、家康が寺の修復(豊臣政権下に称名寺は本堂で軍船を作らされ、荒れていた)ともに、葵の御紋拝領・下馬札御免の許しを得た事による。 もっともこの石柱の製造年は、ずっと後世のものだと思われる。”下乗”の意味は、文字通り 「ここから先は、馬に乗ったまま入る事を禁ずる」という意味。称名寺の格の高さを伝える貴重な石柱である。

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