千恵子はイギリスに住んでいるため葬儀には出られず、次のようなメッセージを送ってきた。

おばあさん、

 もう一度再会出来るものだと思って帰国をとても楽しみにしていたんだけど、本当に残念です。もう一度おばあさんにジョンを抱っこしてもらいたかった。ジョンも元気にすくすく育ってくれて1歳8ヶ月になり、今では数字も数えることが出来るようになり、私の年齢で産んでもちゃんと育ってくれていることに深く感謝をしています。残念ながら今回間に合わなかったけど、一度でも私の念願だったおばあさんに私の赤ちゃんを抱っこしてもらいというのが叶い、おばあさんとジョンの写真は私たちの宝物です。

おばあさんのあんころもち今も忘れることができません。いつも千恵ちゃん頑張ってねと別れ際に声をかけてくれたのもおばあさんでした。一番心に残っているのは、私が結婚しイギリスに移って初めての赤ちゃんを流産して帰国した時、唯一おばあさんだけが 千恵ちゃん、赤ちゃん悪かったねと声をかけてくれた事です。多分他の叔父さん、叔母さんは気を使ってあえて私の流産のことには触れないようにしてくれたんだと思うけど、私はそのおばあさんの一声が本当に温かく救われるような気持ちになったのを覚えています。私の子供を亡くしたどうにもできない深い痛みを受け止めてくれたように聞こえました。

 おばあさんも長男を3歳で亡くし同じ深い痛みを背負って98歳まで頑張って2人の息子を育ててそれもおじいさんも失いながらも、本当にすごいなと思います。その血を受け継いでいる私たち、おばあさんに負けないように頑張ってジョンをしっかり育てていきます。おばあさん、空からジョンを見守ってやってください。今はおばあさんもやっとおじいさんそして息子のひろみつさんと一緒になれ、私のセサリとも一緒にいてくれるんですよね。本当に今まで有難うございました。おばあさんには人間の強さを教えて貰ったように思います。これからは天国で皆んなと一緒にゆっくりしてくださいね。

お葬式にも行けずお別れが言えないので、手紙を書きました。 私はおばあちゃんの孫に産まれ誇りに思ってます。安らかに安らかに眠ってくださいね。 

千恵子、グレッグ&ジョン

略歴 
明治44年5月3日、父「幾三郎」 母「こう」の長男として生まれ、愛知県額田郡豊富村大字細光字山下1−2の静かな山村で育った。向学心に燃えていた父は、親の反対を押し切って、日本大学に進学したが、やむない事情で中途退学した。
昭和8年12月26日に妻「いと」を迎え、3児をもうけた。(弘光−幼児時に死亡、祐三−跡継ぎ 照夫−筆者)。その後、軍隊に応召、除隊を繰り返し、独学で法学を学び警察官となり、最後の応召前は、名古屋の千種に住み、愛知県巡査として御器所署に勤務した。

軍歴
の概略
・昭和07年        :現役兵として名古屋輜重兵3大隊に入隊
・昭和08年11月    :除隊
・昭和12年7月     :応召し、三島重砲3聯隊に入隊、北支に出征、戦闘に参加すること15回、最後にバイアス湾敵前上陸に参加、
・昭和14年3月     :召集解除
・昭和16年7月17日 :名古屋中部第8部隊(第3師団野砲兵第3聯隊)において編成される独立輜重兵第52大隊第3752部隊に再応召。8月9日満州に向け、宇品を出発、8月13日に大連港上陸、8月19日に東寧縣大肚子川に到着し、輸送援助任務に就く。
昭和18年6月26日  :東寧縣大肚子川付近に於いて任務遂行中病魔に冒され、牡丹江第2陸軍病院に入院し、同年、10月30日同病院にて死亡した。 

   遺言状
「人死して名を残す」との古言の如く、この世に生を享けた喜びを感じ、世道に恥ず事無き様、愚子息は充分の教育を受けさせ、皇国の為、立派なる人となる様、御尽力を願ふ。皇国の為、立派なる人物養生を専一に願い度し。
   昭和18年7月1日


独立輜重兵第52大隊第3752部隊軍歴簿
 昭和16年07月07日  :  特臨編16令付107−3発令
        07月19日  :  野砲兵第3連隊(名古屋)において編成完結
        08月09日  :  宇品出発 (広島県−陸軍運輸部)
        08月13日  :  大連港上陸 (満州国)
        08月16日  :  関東州界通過
        08月19日  :  東寧縣大肚子川着
 昭和17年10月      :  一部の兵員 内地帰還
 昭和20年05月      :  独立重砲第9大隊及び独立輜重兵第64,65各中隊の残置人員役500名転入
        08月09日 :  開戦時の部隊配置
                     主力・・・・・・大肚子川の警備
                    第1中隊・・・朝陽川の第16野貨廠の輸送援助
                    第2中隊・・・朝陽川の第20野貨廠の輸送援助
                    第3中隊・・・南陽、図們、東寧重砲連隊輸送援助
                    第4中隊・・・大肚子川重砲連隊輸送援助
                    第5中隊・・・老黒山重砲連隊輸送援助
                    第6中隊・・・大肚子川重砲連隊輸送援助
                   開戦後、部隊は間島に集結すべく行動を開始
       08月16日  :  第5中隊(主力)及び第四中隊(一部)は大荒溝において武装解除
       08月28日  :  大荒溝出発


             

  父が異国の土地に上陸した現在の大連港 (現在の港)     広島県宇品にある 旧蹟陸軍運輸部船舶司令部碑 

東寧(大肚子川)第2陸軍病院軍歴簿 (関東軍第65病院・・・関東軍75病院に改称)
 昭和15年07月10日  :  軍令陸甲第14号により編成下命
        07月16日  :  特臨編第102−2号により編成下命
        08月01日  :  東寧県狼洞溝において編成完結、同地付近部隊の傷病兵を収療
 昭和20年08月17日  :   主力は老夏家において武力解除

父の関わった戦争
1)日中戦争(支那事変)
 1937年(昭和12年)から1945年の間に大日本帝国と中華民国の間で中国の土地に行われた戦争であった。
日中戦争は北支より中支に拡大し、中華民国の海外からの対支援物質はの主な流入口は広東であった。この広東を占領して物資流入を絶つべき、日本軍は、昭和13年10月2日、2ヶ師団をもってバイアス湾に敵前上陸し、10月21日には広東を占領した。

2)大東亜戦争(アジア・太平洋戦争)
 第二次世界大戦のうち,アジア・太平洋地域において,日本が一方の主たる当事者として,米・英・オランダ・中国等と戦った戦争で,1941年(昭和16年)12月8日(真珠湾攻撃日)に始まり,1945年8月15日に日本の降伏により終結した。下の写真は真珠湾攻撃の時のもので本より引用した。

                     
  
        攻撃を受け、炎上する戦艦アリゾナ            猛爆を敢行、悠々敵上空を飛ぶ荒鷲

父の関わった部隊
独立輜重兵大(中)隊
 独立輜重兵大隊は関特演(昭和16年7月の関東軍特別第演習の略)以降昭和19年まで 9個、同中隊は15個あったが、終戦時大隊は5個、中隊は4個残った。
尚、大隊には(甲)と(乙)の両編成があり、(甲)は更に輓馬と駄馬の2種類あった。又、(乙)は現地人馬を徴傭して運用するための基幹 人馬だけで編成されていた。

独立輜重兵第52大隊(乙)
 大隊は昭和16年7月19日、第3師団野砲兵第3聯隊(別名、名古屋中野第8部隊)において、名古屋で編成後、東満に進出し、第3軍所属で終始している。初代大隊長は小田島薫中佐、2代が佐久間鉄治郎少佐であったが、佐久間少佐は輜重兵第139連隊長に転出しており、その後の状況は判明しない。
 

3)戦地の記録
 亡父が戦地に赴き活躍していた証拠が、現地より実家に送られてきたアルバムに残っていた。 昭和17年、満州国牡丹江省東寧県大肚子川(現、黒龍江省東寧県大肚川)で撮影した戦友との一緒の写真、そして、こんな遠い異国の土地で郷土の人と出会った写真が、当時の面影を忍ばせている。アルバムの説明文は亡父直筆である。

左の写真は亡父が軍曹の階級時、戦友と一緒に撮影したもので、背景は中国大陸を見ることが出来る。又、右の写真は同じ村の戦友との記念写真である。

        
                                                            

  

齋藤悦治軍歴
齋藤いと生涯

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85歳 和彦の安城の家の前にて

85歳 和彦の家にて 曾孫の菫

97歳 富田病院でリハビリする母

97歳 本宿、富田病院見舞いの時の母

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靖国神社 御祭神記録

名前         齋藤悦治
死没年月日    昭和18年10月30日(戦病死 享年33歳)
階級         陸軍曹長 勲6等単光旭日章 
戦役名       大東亜戦争
発病場所      満州国牡丹江省東寧県大肚子川
死没病院      東寧(大肚子川)第2陸軍病院 
所属部隊      独輜52大隊3752部隊 洲淵隊
死没本籍地     愛知県額田郡豊富村大字細光字山下1−2
死没時遺族    (妻) いと (子供) 祐三・照夫
合祀年月日    昭和20年4月24日

戒名        大忠院護国禅悦居士 

2004年9月18日撮影、父の墓前で母いと、兄祐三、 愚妻登志子

筆者も定年を迎え、異国の地で散った父を慰霊をすることと、父の足跡を知りたく、兄と相談し、満州訪問の計画を立てた。
わずかな情報を基に靖国神社、愛知県庁(健康福祉部医療福祉計画課恩給援護・計画グループ)、厚生労働省(社会・援護局業務課調査資料室)及び中国系旅行会社に問い合わせ、旧満州国地図を含め、軍歴簿等を入手した。 父個人の詳細な軍歴を調査することは困難であったため、関係した戦争と部隊の説明及び所属した部隊の軍歴簿と重ねて、父の足跡をまとめた。

  白寿糸光大姉

母いとの子孫

息子3人、孫5人、曾孫11人
息子:斎藤弘光(死亡)、齋藤祐三、齋藤照夫
孫; 齋藤哲男、川口真弓
   齋藤和彦、デイ・千恵子、齋藤智紀
曾孫
齋藤大祐、齋藤彩、齋藤祐也、
    川口雄大、川口大喜、川口航平
    齋藤菫、齋藤花乃、
    デイ・ジョン
    齋藤優奈、齋藤百合

93歳 千恵子の結婚前の細光訪問

細光での法事の時の記念写真

98歳 千恵子来日時の細光

98歳後半 退院後の見舞時の母

父、齋藤悦治が満州で亡くなってから、母、いとは72年間独身を通し 子供と家の為に働き続けた。その苦労は言葉には言い尽くせないものである。大正、激動の昭和、平和の平成の3つの時代を生き抜いてきた。

母、いとの略歴
 1、大正05年10月31日:父、小川福松、母、みつの間に次女として,隣村の滝尻で誕生。
 2、昭和08年12月26日:齋藤悦治と結婚。弘光、祐三、照夫の3児を設ける。
 3、昭和18年10月30日:夫、齋藤悦治が満州にて戦病死。
 4、平成17年05月27日:母の名代として、兄、祐三と父、悦治の終焉の地、旧満州に行き
             、   62年振りに慰霊した。
 5、平成27年02月27日:13:30分、岡崎市民病院にて永眠。享年99歳
 6、平成27年03月01日:午後7時より、JA 天昇苑にて通夜。
 7、平成27年03月02日:午前11時より、JA 天昇苑にて葬儀
 8.平成27年04月11日:49日として、墓地に納骨。

下記は母,いとの一生の記録である。

30歳頃、我々が幼少の頃の母

83歳 和彦の結婚式場にて

昼神温泉

87歳 細光、父の墓石の前にて

89歳 細光の家に全員訪問時の母

88歳 下呂温泉の旅行 登志子の母と一緒に

97歳 細光の家にて

93歳 千恵子、グレッグ結婚式場

98歳 千恵子夫妻の来日時の細光

98歳 ジョンの重さに驚く母

昭和16年8月9日
日本 広島県宇品出発


昭和16年8月19日
東寧県大肚子川到着
興凱湖

昭和16年8月13日
大連到着

昭和16年8月16日
関東州境通過

98歳千恵子の子供、ジョンを抱き、微笑む母

岡崎市岡町のJAあいち天昇苑の大ホールで通夜、葬儀が執り行われた。香典は約125名、通夜及び葬儀の参列者は、約200名であった。

天恩時の住職が主になり、伴奏者6名、計7名の僧侶での葬儀であった。

通夜は生憎の雨であったが、葬儀は快晴に恵まれた。

齋藤いと葬儀場の入り口

齋藤いと、「白寿糸光大姉」の葬儀場光景

齋藤いとの記録写真集

26歳頃、小生を抱く母

15歳頃、女学校時代の母

38歳頃、筆者が中学校時代の家族 上段左より、幾三郎、ぎむ、下段、左より筆者、母、うめ

50歳頃、和彦が幼児の頃の細光訪問 バス停まで見送る母

岡崎市上地時代のお祭り

知多半島の旅行

出兵時の父の足跡