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黒龍江省

ウラジオストック

Heilongjiang

埼玉県の自宅前にて
出発

2005年5月27日(金)、大東亜戦争時、異国の地で没した父の慰霊を主目的とした,父の終焉の地、中国東北地方の旅に兄弟で出発した。

成田発  CA952便で父の足跡と同じ中国の大連に向け、飛行時間約3時間で到着(上陸)した。
 飛行は日本の上空、韓国の上空を飛び、大連に着陸した。
2005年4月、中国で反日運動のデモが起こり心配したが、4月23日の小泉首相と胡錦涛国家主席との日中首脳会談以後、デモも鎮圧され、又、現地の旅行会社に安全を確認して旅立ったが、一抹の不安を抱えての中国入りであった。

しかし、大連空港に降り立ち、ガイドの宋文霊さんの歓待、ホテル内の雰囲気 及び 大陸最初のテレビ塔での食事時の歓待で、心配も薄れていった。

テレビ塔からの景観は非常に綺麗であるが、残念ながら当日は曇り空でいまひとつであった。

テレビ塔の広場で兄弟の記念撮影
  このテレビ塔の下にあるレストランで夕食を執った。ウエイトレ は日本語を勉強中とのことで、色々話しかけてきてくれた。若干のチップを渡すと、非常に親切になり、色々日本語で会話した。

全く反日感情は感じなかった。
大連万達国際賓館に戻ると、ホテルの担当者が出迎えてくれて、一緒に記念写真を撮った。  

後が大連万達国際賓館
大連万達国際賓館

大陸最初の夜は、ここ大連万達国際賓館で、大連空港より車で約20分程度の位置にあり、19階の我々の部屋からの眺めは、直ぐ前には港があり、テレビ塔が立つ山が見え、近くには高層ビルが立ち並んでいた。

裏側に入ると昔の中国を見ることが出来るが、一部は再構築で撤去等の工事が進んでおり、近い将来、この付近一体は高層ビル群に囲まれるであろうと思った。
大連は日本人旅行者が多く、ホテル内には日本人の案内所、日本料理店も用意されており、多くの日本語が話せる従業員がおり安心して滞在できた。

遼寧省大連市は中国東北部の中で最も南に位置し、新潟と同じ緯度にあり、冬はやはり寒いが、海洋性気候のため雪はめったに降らないと言う。
大連市は中山区を含め4区、行政区として金州区、日清・日露戦争の地である旅順口区、他3市、1県からなり、中山広場、天津街、日本街、大和ホテル等良く知られたところの多くが中山区に集まっている。

牡丹江への飛行機待ちに、星海広場、老虎灘公園、日本人街、大連港 及び 大連駅を観光した。

大連万達国際賓館玄関

星海広場兄とガイド宋文霊さん
5月28日(土)星海広場

著名な星海公園は、大連市の西南、渤海湾に臨む海浜公園で、星海湾景区の重要なスボットの一つである。

日本人の統治時期の1909年に造られはじめ、そのときは「星ヶ浦」公園という名前で、今では海水浴、療養に適した娯楽施設をもつ中国で有名な海辺公園になっている。19万uの面積を持ち、海岸線は800m、敷地の面積は15万uの陸地園林と800u余りの“弓”型の状海水浴場からなっている。
星海広場には大連市の市制100年を記念して造られた人の足型を並べたコンクリート帯があった。
         

訪れた日は丁度、歩け歩け運動が開催されており、約10万人が参加したとのことで、星海広場、老虎灘公園でも多くの参加者を見た。服装は殆ど我々と同じで、日本人か中国人かは見分けつかなかった。

老虎灘公園兄弟にて
老虎灘公園

市内中心部より車で約20分。市街南部にある老虎灘湾に造られた海浜リゾートで、珊瑚館、海洋動物表演館、巨大水族館など海にちなんだ施設のほか、2000羽の鳥が放し飼いになっている鳥語林などがある。

訪れた日は土曜日でもあり多くの観光客が来ていた
観光客も殆ど我々と見分けはつかなかった。
日本人街

南山麓住宅地付近は日本人が多く住んでいたところで、通称、日本人街と言われ、今でも、その古き家を見ることが出来る。
ここには、関東軍の人、満鉄の人も住んでいた。

「アカシアの大連」と言われるように
大連の街には多くのアカシアの木があり、ここにもあったが、時期が少し遅く、花を見かけることはなかった。

日本人街

大連港
大連港

64年前の昭和16年8月13日、親父も独輜52大隊3752部隊の一員として、この大連港に上陸し、関東州、ハルピン、牡丹江経由で 東寧大肚川(旧名大肚子川)に向った、遠い昔のことを思いはぐらせ、記念撮影をした。

戦後、ここから多くの日本人が引き上げたのだが、半世紀以上たった今ではその面影も感じられない。
中山広場

この広場を中心に10本の道路が放射線状に走り、広場の周りには大連賓館(旧大和ホテル)など旧時代の西洋建築物が建ち並び、後方には高層ビルがそびえていた。周囲の道路は広々としていて、坂道が多い為か自転車が少なく、路面電車、バス、クシーが市民の足となっているようだ。
夜はライトアップされ、この付近には、満鉄本社、税関ビル・・等満州時代の建物がいまだ残っている。

中山広場

大和ホテル(大連賓館)玄関
大和ホテル(大連賓館)

満鉄の迎賓館として建てられ、内部は改装されているが、当時のシャンデリア、家具が残っており、昔を偲ぶ由緒あるホテルであった。

      
 
           
右の写真は大和ホテルの全景である。   
   大和ホテルの内部は大理石で造られ、立派な内装であった。兄弟二人で、内部の椅子に座って記念写真を撮った。
ここ、大和ホテル(大連賓館)は日本の著名な建築士、太田毅氏と吉田宗太郎氏によりデザインされ、1909年に建てられた歴史と伝統を誇るもので、日本の中曽根、村山歴代首相が泊まった由緒あるところである。

日本の要人、満鉄の重役等が歩いたとされる、赤ジュウタンが敷かれた玄関先と優雅な一階のロビーで兄、祐三の記念撮影をした。

大和ホテル(大連賓館)

大連駅
大連駅

上野駅を模して造られ、2003年夏、外観は殆ど残し、内部は近代的に改装された。
ここからは、北京、斉斉哈尓、牡丹江
、長春、大慶、丹東等々に出る列車があり、牡丹江までは約19時間かかる。
         
              大連駅構内
牡丹江行きの飛行機時間調整で大連市中山区春和街50号にある「香茗閣茶芸舘」に入り、中国茶の飲み方を見学した。

一葉茶、、鳥龍茶(鉄観音)、ジャスミン茶、プーアル茶、 茘枝紅茶(ライジャコーチャ)、甜茶(テンチャ)を中国の作法で、小さな茶碗を使って、香りと味を堪能した。何種類かお茶の合間に頂いた目の前に置いてあったお菓子が美味しかった。
店を出てくる時はお茶を買わされ、手荷物持つ羽目になった。
  最後はお茶を買わされ、ここの店員と一緒に記念写真を撮った。 
大連空港


右の写真は我々が利用した大連空港で、ここを利用するのは2回目であった。
 
大連空港

大連空港内
 

長年の念願であった牡丹江行きの飛行機の国内便、搭乗口に入った。  写真の奥の方が国際便搭乗口である。2年前、北京から日本に帰るとき、ここに寄ったが、いまは改装され、非常に綺麗になっていた。
若干遅れたが、16:30 SC4633便 50人乗り程度のジェット機で大連空港を飛び立った。

       
   
                
牡丹江空港

機内で日本語を話す2人に会った。一人は、日本人で、75歳前後、大学教授を退職してから、人に頼まれて2〜3ヶ月、中国東北地方に働きに行くと言う。もう1人は日本に働きに出ていて里帰りする中国人で、この女性は流暢な日本語を話し、何か困ったことがあったら、何なりと言ってくださいと親切に言葉をかけてくれた。
飛行機は順調なフライトを続け、西の空が赤く染まる18:00頃に念願の地、牡丹江の大地を踏んだ。

到着ロビーでは我々の名前を掲げて中国人ガイドの鄭慧文さんが迎えに来てくれていた。彼女は某大学の助教授で日本語を専攻していると言う。

牡丹江空港内

牡丹江空港
父の行軍は大連から東寧県大肚川まで6日間かかったが、我々は牡丹江まで約1.5時間で着いた。
牡丹江空港は小さな空港であったが、ここは国際空港でもあった。


異国の地の行き先は、ウラジオストック等、ロシアだけで、国際エリアの方ではロシア語が書かれていた。残念ながら日本との飛行計画はなかった。
大陸の夕日

空港から宿泊予定の牡丹江市新華路地明街1号にある北山賓館まで約20分のドライブであったが、その途中、中国大陸の夕日が我々の訪問を歓迎しているようであった。 いや、親父が「よくぞ、来たな」と語っているようでもあった。

残念ながら、走る車の中からの撮影で、電柱が邪魔をして、綺麗な夕日が撮れなかった。

夕日の大陸
牡丹江の最初の夕食は、八女投江近くの高級飯店で中国人のガイドの鄭慧文さん (牡丹江医学院外語教研室、日本語の助教授)と運転手の李さんの4人で、牡丹江旅行にお世話になった小島様お勧めのハルピンビールで乾杯しながら、多くを語り合った。

本命の場所は、ここ牡丹江より更に東に200km以上入った国境の街、東寧大肚川鎮であるが、ガイドの都合とウイークエンドの事情で、その前に南に100km以上離れた鏡泊湖観光を計画した。
その夜、八女投江記念碑を訪れた。暗くてよく見えなく、帰りに再度訪問したが、これは悲しい物語がある。

日中戦争のとき、中国軍が敗れて牡丹江まで追い詰められた。そのとき八人の女性兵士が、負傷者を肩に負い放歌高吟しながら牡丹江に身を投じ、日本軍の注意をひきつけ、主力の撤退を助けたという話である。 この中には2人の朝鮮民族が含まれていたと言う。
 
   ホテルへの帰り道、飲食街で兄とガイドの鄭慧文さんの記念写真
5月29日(日) 東京城  

鏡泊湖までのドラのイブ途中
小さな三輪車タクシーが沢山走っている東京城の街を通り抜けた。この街も歴史があり、名前からも非常に興味があった。しかし、昔栄えたこの都も今は陰も形も無いと言う。

遼陽市の太子河東方2.5kmの新城村にある清の太祖ヌルハチが赫図阿拉(ホトアラ、現、遼寧省新賓満族自治県)から遼陽に遷都したさい、後金(清朝の旧称)の天命7年(1622)に築いたもので、清朝初期の関外三都城の一つで、3年後、瀋陽へ遷都するまで、ここを都城としていたところで、かったは八つの城門があったが、今は遺跡は何もないと言う。

東京城の現状
鏡泊湖(チンポー) 吊水楼爆布

約2時間のドライブ後、鏡泊湖から流れ出る水で形成される滝、吊水楼爆布に行った。
高さ25m、幅50mの滝で、雨季(7月〜8月)には洪水のごとく落下する水は壮観であると言われる。

この時期に水の落下が見られるのは運が良いともガイドの鄭さんが言っていた。又、ダイビングに丁度良い水量で,、1日2回のダイビングのパフォーマンスにも出会えた。
鏡泊湖は遠い昔、火山噴火で出来た堰止湖で、このあたりの野原、川は溶岩で埋め尽くされていた。
その火山口は鏡泊湖より約50km離れたところにあり、火山口内に密集している原始森林がり、そこには各種鳥獣が生息している。
そのためか、火気については非常に厳しく、喫煙を注意された。


後日分かったことであるがガイドの鄭さんは大学助教授であるが、日本語の勉強するため、日本人ガイドのみを引き受けていると言われていた。

鏡泊湖、兄、ガイド鄭慧文さん 私

鏡泊湖船中にて
鏡泊湖で約1.5時間の遊覧船に乗って、湖内を巡った。湖畔は多くの宿があり、8月になると観光客、宿泊客が訪れると言う。我々が訪れた時は避暑には少し早く、客もまばらであったが、この地は避暑地として有名で、中国の要人が多く訪れると言う。

この湖名産の肉質の柔らかい「湖魚即」は美味と言われている。
鏡泊湖で船に乗って観光する兄と鄭慧文さん
 
 
   鏡泊湖で船に乗って観光する兄と筆者
鏡泊湖近くの朝鮮料理店に入ったが、満席で店の居間に通され、円卓を囲んでの昼食をとった。 中国家屋とは少し違った昔の韓国風の間取りで、室内は真っ白に塗装されていた。朝鮮民族は白が好きだと言う。又、中国人は赤色が好きだと言う。

居間に入ったため、食器の洗浄場所を見かけたが、ひしゃくですすぎをしていたのは、古い昔を思い出し、衛生が心配になったが、料理は美味しかった。

もうひとつ大変なことは屋外に設置されていた公衆トイレ(?)で、肥溜めの上に一部建物を建て、内部は仕切りなしで、勇気のいるトイレであった。

朝鮮飯店にて

興隆寺
興隆寺

鏡泊湖より少し牡丹江の方に戻った位置に、この寺があった。石の灯篭は1000年以上の歴史がある、有名なものである。
         
 この寺の翁石灯籠乃前で兄と記念写真を撮った。  
   寺の入り口で兄とガイドの鄭慧文さん
渤海(ぼっかい)博物館 渤海遺跡

渤海(698年 - 926年)は満州朝鮮半島北部ロシアの沿海州にかけて、かって存在した国で、高句麗滅亡後に遺民が建てた国で、交易で栄えたが、最後は契丹(遼)によって滅ぼされた。
主要な担い手は靺鞨と呼ばれるおそらくツングース系の人々であったと考えられている。韓国、北朝鮮では高句麗の遺民が建てたことを重視して朝鮮民族の歴史に位置付けられる国家とみなし、渤海と統一新羅が並立した時代を南北国時代と呼ぶ。中国では靺鞨民族を主体とする東北地区の人々が建てた中国の地方政権とみなしている。

日本の遠い昔(1,200年前)、菅原道真のころ、日本海沿岸との交易が記録に残されている。約200年の交流があったと言われていいる。

渤海博物館
  ここから4枚はこの地を紹介した人が送ってきた写真で、隣の県、栃木県にお住いの三柴 博さん の父上も、我々が訪れた大肚川の近くの東?村の陸軍第一病院で戦死されたようであった。
三柴さんは叔父を連れての参拝であった、

 同行者は上の写真で左から、

現地の人。三柴 博さん、杜忠誠さん、三柴さんの叔父、小島悦行さん。




右は東寧要塞の入り口で撮った三柴 博さん。
 
  東寧駅 
 東?村の入り口  

渤海遺跡の碑の前で記念撮影
渤海の名は本来、遼東半島と山東半島の内側にあり黄河が注ぎ込む湾状の海域のことで、初代国王大祚栄が、渤海沿岸で現在の河北省南部にあたる渤海郡の名目上の王(渤海郡王)に封ぜられたことから、本来の渤海からやや離れたこの国の国号となった。
中国はこの渤海を世界遺産に申請しているが、前述の通り韓国が異論を唱えている。

           
 
        
夜は牡丹江の百姓村で食事
渤海遺跡の入口に昔の権勢があった頃の絵があった。思ったより雄大で、広かった。   
  夜は牡丹江の田舎と言う食堂に行った。帰りには、ウエイトレスが快く一緒に記念写真に入ってくれた。
北山賓館

4日間宿泊した歴史を感じさせるホテルであった。中庭にはライラックが咲きほこり、快い香りを吹き散らしていた。 広大なホテルの土地の直ぐ裏には北山公園があり多くの子供が遊んでいた。

日本語は殆ど通じなく、食堂で若い女の子が片言で日本語を話しかけてきた。
               

 
ホテルの内庭
北山賓館の内部でライラックが沢山咲いていた。 
 広大なホテルの土地の直ぐ裏には北山公園があり、近くを散歩した。右の写真は公園の入り口である。  
北山公園

国道301号線
5月30日(月)

今回の計画を立てて頂いた権香玉さん(牡丹江中国国際旅行社)とホテルのロビーで会った。小島様のホームページで写真を何回か見た関係上、昔からの知人のような気がして、初対面とは思えなかった。

今日は待望の200km余先、父の終焉の地、東寧に向かって国道301号を東に向かって走った。大陸は広い、行けども行けども同じような景観が続き、小さな部落を過ぎると又しばらくは荒野をひた走り、途中国道301号を右側に折れ、約3時間余で東寧の街に着いた。
写真は西はハルピン、東は綏芬河を結ぶ線路であるが、一度も列車は見なかった。
東寧の街並
東寧の街のメインストリートは予想以上に綺麗で、道路も広く、歩道もきれいな石レンガで敷きつめられ、建物も洋風、ロシア風が建ち並んでいた。 この付近が東寧の中心地であると言う。
我々の宿泊予定の東寧税苑賓館(黒龍江省東寧県中華北路)では東寧、大肚川を良く知っている長老、杜忠誠さんが待っていてくれた。 この人の案内で目的地の大肚川に向かった。


東寧県はを約210,000人の人口を保有し、行政区域として6つの鎮で構成されている。東寧県、綏陽鎮、老黒山鎮、道河鎮、三盆口鎮、大肚川鎮で この中の大肚川鎮が今回の大きな目的地であった。
その下位に街、村がある。

東寧街並

途中の中国風家屋
大肚川鎮はこの東寧より更に車で南東に40分程奥地に入ったロシア国境の近くで、東寧の街より一歩抜けると、時代はいっぺんに逆戻りし、ところどころに、屋根の上に煙突が2つ、3つ飛び出た農家が点在していた。

道路は舗装されていたが、ところどころで工事が実施されており、山間の細い道を走って行った。
大肚川鎮の全景

やっと、念願の地に近づき、全体を見渡せるところに来た。胸の高鳴りを覚えながら、付近を凝視し、シャッターを切った。
昭和16年7月17日、独立輜重兵第52大隊第3752部隊が名古屋で編成され、8月19日にここに到着し、任務に就き、2年後の18年10月30日に心ならずもこの地で父は没した。

写真の右側奥が、父が任務を果たしたと思われる大肚川鎮の家並みで、少し手前に大肚川(かわ)に架かる日本軍が設けた御成橋を渡ると、その少し奥に東寧(大肚川)第2陸軍病院跡があった。その地の今は何かの工場になっていた。


大肚川鎮の遠望

大肚川橋の袂で記念撮影
大肚川に架かる橋

この橋を渡ったところが父を含め、多くの日本人が任務に就き、住んでいたと思われる大肚川鎮の街並みがあった。 

中国の一般的な住居表示は、省、市、県、鎮、郷、村となっており、ここ大肚川は鎮の位置にあり、約20,000人の人口を持っている。
 中国は一人っ子政策であるが、農村の働き手を増やすため、戸籍を持たない人もいると言う。実際の人口はもっと多いと思う。
大肚川の街並

鎮の中心部には一部近代的な建物も建っていたが、殆どは、屋根の上より煙突が出ているレンガつ造りの1階建て家屋で、自動車も殆ど走っていなく、牛車、自転車が駆けていた。

   

          

大肚川鎮の入り口
 
中国伝統の家屋
中国のこのような奥地に入ると、ほとんど舗装は無く、未だに昔のままの家が立ち並んでいた。 その道路の真ん中に立ち、記念撮影をした筆者
 同じ場所でガイドの杜忠誠さんを真ん中に兄と筆者の記念撮影

ガイドの杜忠誠さんと話をしていくにつれ、1941年生まれで同い年のことが分かった。
 
   

兄の後のコンクリート製の構造物が砲台基礎
日本軍が残した砲台の跡

大肚川の町より少し南側に走り、杜忠誠さんが最初に我々を案内して頂けたのは、写真のように日本軍が設けた砲台であった。今はコンクリートの基礎しか残っていないが、父もこの砲台構築に参画したかも知れず、感慨深げに眺めた。
大肚川の日本家屋

更に、日本軍が建てたこの地域唯一の日本家屋を見せてもらえた。場所は黒龍江省東寧県大肚川鎮の北側で、中国の家屋は煙突が屋根の上より出ているが、日本家屋は、外壁より出ていると言う。それが証拠だと我々に杜忠誠さんは語った。

昔、この付近にはこのような日本家屋が沢山あったが、時と共にこの1つを残して、全てが建て替えられたと言う。


父を含め、多くの日本人が住んでいた証拠がここにあった。 感無量。

後の家屋で、煙突が2本出ているのが日本式家屋

御成橋を挟んでの記念撮影
日本軍が造った橋「御成橋」

大肚川鎮の感慨深い説明を受けた後、大肚川の町より少し北側に離れた本命の東寧(大肚川)第2陸軍病院に赴いた。そこに行くには大肚川に架かるこの橋を渡らなければならない。「御成橋」と書かれ、中国年号を杜忠誠さんが換算して、1937年の建立と分った。

今から数えて、68年前に建てられたもので、父が赴任した4年前のことである。父もこの橋を渡ったことであろうと感慨にふけった。
東寧(大肚川)第2陸軍病院跡

父が昭和18年10月30日に没した病院は今は跡形もなく、何かの工場になっていた。 場所は黒龍江省東寧県大肚川鎮の南側で、立地的には大肚川鎮の中心より少し離れ、小高いところにあった。その西側には独輜52大隊3752部隊があったと言う。

ロシア国境付近には多くの陸軍病院があったと言う。この地より南に少し離れた狼洞溝、及び 東寧の街の南側(現在住宅地)、更に 東寧県東綏村の山の東側(現在田畑)にも大きな日本の病院(東寧第1陸軍病院)があったと言われ、そのいずれも今は他の建物又は田畑になっており、その面影は殆どないと言う。

これらの病院で多くの人が命を落とされたと言う。

病院跡は現在工場になっていた。
病院跡からの付近の眺め
 
北側御成橋と大肚富士
 左の畑は満州第3752部隊跡地
 
北東 現建物付近が病院跡地

 
南側大肚川鎮の町 前の畑は満州第3752部隊跡地

 
西側の部隊跡地
 前の畑は満州第3752部隊跡地
兄と二人でこの地に立ち降り、父も病室で眺めたであろうと思われる北側の御成橋と日本軍が名づけたと思われる大肚富士、西側の独輜52大隊3752部隊の跡地の畑、東側のロシア国境の山々、南側の少し遠くに見える大肚川鎮、その間を流れる大肚川を、しばしの間、遠い昔を思い出すように見つめていた。

よくも、こんな遠くにきたもんだなーと感心した。


下の写真は御成橋を過ぎ、北側にある小高い山の麓から見た病院跡地



この小高い大肚富士の麓、東寧第(大肚川)2陸軍病院の見える、少し奥まったところで、62年の歳月を越えて父の慰霊をすることにした。
    
62年後の現地慰霊

「おとうさん、遅くなりました。やっと来ました」
「良く来てくれたな」。と言う父の声がしたような気がした。
立派なことは出来なかったが、日本から持ってきた、紙で造った位牌と父母の写真をおき、、米、水、蝋燭、線香、現地で求めた花を捧げて、念願の慰霊を行った。


ガイドの権香玉さん、杜忠誠さんそして運転手の李さんは少し離れたところで、暖かく見守っていてくれていた。
「父を思う心は、誰もはばかることはない」と言う言葉頂戴した。
 嬉しかった。

兄にて慰霊の準備 前方の家付近は病院跡
  左の写真は簡易な位牌を設け、父の慰霊をする兄 
 そして、右の写真は同じく父を慰霊する筆者  

東寧要塞入口
東寧要塞

念願の慰霊が済んだ後、父も訪れたであろうと思われる、東寧要塞、東寧国境を訪れてみた。場所は東寧の街より北東に行った、国境近くで、現住所、黒龍江省東寧県山岔口鎮の南側にある。

ロシアとの国境沿い南北約百十キロ、東西約五十キロの周囲に、旧日本軍が戦時中に、対ソ連との戦争作戦のために築いた大規模な要塞群である。 
要塞内には色々な資料が展示されており、当時の悲惨さがしみじみと感じられた
東寧要塞入口に入る手前に、左の写真のように、大きなモニュメントがあった。この前で兄弟で記念写真を撮った。   
モニュメントになる場所
 
要塞内の表示
 要塞内には見学が出来るように、色々な所に案内板が掲げてあった。
この付近にはまだ大きな要塞があるが、予算の問題で、手付かずの状態だが、ここ東寧要塞は看板も新しくなり、飛行機、戦車等のモニュメントが用意され、工事中であった。

 
       
 

勿忘九、一八 額の前にて

東寧国境付近
東寧国境と東寧駅

国境付近は非常に綺麗な街で、中国側にも多くのロシア人が立ち話をし、又、ロシアのバスが中国観光ツアーに出かけるのも見かけた。 現住所、黒龍江省東寧県山岔口鎮である。
東寧への帰りには、東寧駅も見かけた

  
    東寧駅 (車窓より)
東寧の夜

大肚川鎮に行った5人で夕食を共にした。杜忠誠さんは酒は余り強くなかったが、時が過ぎるに連れて、自分のことを話し始め、筆者とほとんど同じ64歳(1941年1月)であること、公安局に勤めていたこと、又、鶏西梨桝鎮西三道街で住んでいた幼い頃、隣の家が日本人の歯医者で、その息子さんが同年代で一緒に遊んだこと、機会があればその人に会いたいこと等の話題が弾んだ。


我々の目的に対し、親切にご協力して頂け事に感謝しつつ夜は更けていった。夜空の星も牡丹江より綺麗であった。杜忠誠さんは現在、黒龍江省東寧県陽光小区に住まいを持たれている。
            
  
                   


杜忠誠さん
兄、ガイド権香玉さん、運転手李さん 私
  反日感情は全く感じられず、出会いに乾杯をした。 
 筆者と同年齢のガイドの 杜忠誠さんの写真で、人のよさそうな人であった。

翌日、我々がホテルを立ち去るとき、わざわざ送りに来てくれた

 杜忠誠さん

ホテル税務賓館前にて兄
5月31日(火)

念願の慰霊が終わり、ホットし、肩の荷をおろしての東寧の夜を過ごし、翌日宿泊した税務賓館の前で記念撮影した。

東寧は貿易交流区域として認められ、経済発展が著しいと聞かされ、街の発展状況、国境の状況、東寧駅の状況を見てうなずけた。

今日はこれから、更に発展した国境の町、綏芬河を経由して牡丹江に帰る行程をとった。
路上のイチゴ売

綏芬河に行く路上で農家が育てたイチゴを売っていた。権香玉さん、運転手の李さんはその場で、味見していたが、我々、日本人の腸の菌を心配してくれ、綏芬河の昼食時洗ってから食べさせてくれた。正直言って甘みが足りなく筆者には口に合わなかった。

路上でイチゴを買う我々

綏芬河の街

国境の街、綏芬河

東海林太郎の「国境の街」のモデルとなったのが、この綏芬河(すいふんが)である。

左の写真の中央の小さな2つの小屋の横に国旗が掲げてあるが、これが、中国とロシアの国旗で、この中間地点が国境となる。
その向こうの山は既にロシア領である。
中国領の一部に観光者用モニュメント、施設があり、自由に入って国境付近を見ることが出来た、 左側には通関の建物があり、多くのロシア人、中国人が待っていた。又、ロシア領からトラックが多くの材木を積んで、中国領に入っていた。この木材は、現在、綏芬河で加工して、中国全土に売っていると言う。
綏芬河国境  兄、権香玉さん 私

旧日本領事館
綏芬河、日本領事館

日本が満州を統治していたときの領事館で、使用目的が違うが、現在も旅行社等の目的で使用されていた。
綏芬河の日本領事館の直ぐ隣の建物は、かっては日本の特務機関として使用されていた建物である。
綏芬河の街

綏芬河駅
綏芬河駅

ここには国際線と国内線の駅舎があり、 国際線には多くのロシア人が衣服をこの地で買い求め、ロシアで売るため、荷物を駅に運ぶ風景が見られた。
 それらは女性が多かった。

 
、          
綏芬河駅の前で、兄弟の記念撮影   
綏芬河駅前にて
 
ロシア人の出稼ぎ
 左の写真のように、この駅では多くの荷物を持ったロシア人を見掛けた。
中国要人

綏芬河より牡丹江に帰る途中で、中国の公安当局により車を道路横に寄せられ、誰か偉い人の通行を待たされた。翌日、新聞によると町村外相とよく話し合っている上層部の要人(李肇星外相)であった。

何か古い時代の日本を思い出し、中央権力の大きさを知った

李肇星外相の車

八女投江の石碑前にて兄弟
八女投江

ここへ、再度訪れた

我々の後ろにあるのは、八女投江の石碑で、古い昔、戦争中、東北抗日ゲリラの女性隊員8名が日本軍と遭遇し、弾が尽きるまで戦った後、全員が捕虜となることを拒否し牡丹江へ身を投げたことで知られ、この事件を後世に伝えるため造られたものである。この中には2人の朝鮮民族の
人がいた。
八女投江のある石碑の直ぐ裏に牡丹江が流れている。今は、川遊びする人、魚釣りする人、船遊びする人がいるが、冬は氷が1mも張り詰める極寒の地である。

この水は色々な川から流れてくるが、鏡泊湖からの水も混ざって入っている。

牡丹江川の前にて

ガイド権香玉さんと牡丹江酒
牡丹江最後の夜

権香玉さんの配慮により、今回の旅行で大変お世話になった小島悦行様の朋友、王治普さん(74歳)と知り合えることが出来た。この方は、牡丹江では著名な戯曲家、文化人で、多くの場所で王さんの作った劇が上演されていると言う。

権香玉さんは朝鮮系中国人で、非常に親切であった。
 
ハルピンビールで乾杯し、話に花が咲き始めたが、王治普さんのコップがいっこうに減らない。お歳で、健康に気遣い、控えて見えると思ったが、差にあらず、ビールではあまりに薄く美味くないようだ。 「牡丹江」と言う36度のお酒を勧めたら、流石、美味しそうでコップの酒が減っていった。

我々兄弟はどうしても、この酒は飲めなく、何回も行われた乾杯で、ただ口をつけただけであった。
東北地方の寒いほうでは50度以上の酒も飲むことが多いと聞いてびっくりした。

運転手李さん、王治普さん、兄、権香玉さん、筆者 
  小島悦行様の朋友、王治普さん 、学識のある品の良い紳士であった。
お茶を注ぐ中国のパホーマンスで、流石一滴も溢さず茶碗にお茶を注いでいた。  

牡丹江の夜
話に乗って、筆者も少々飲みすぎ、頻繁にトイレに通ったため、私の内臓を心配され、帰りには、夜の街を少し歩き、筆者のため「六味地黄丸」と言う、3000年の歴史をもつ丸薬を買い与えて頂いた。 謝謝。

この時期の牡丹江は柳の花があちこちに飛び交い、一瞬、雹でも降ってきたかと勘違いするほど、空中を舞っていた。 季節のよくなった牡丹江の夜は、多くのアベックと多くの人が散策していた。露店も沢山出ており、多くのものが売られていた。
6月1日(水) 牡丹江三道朕熊楽園

飛行機待ちで牡丹江近郊の観光をした。最初に行ったのは、牡丹江より車で約40分 北方の山奥に行った所にあった。現在は約900頭の熊が飼育され、薬用の研究がされていた。今は季節柄、全ての熊が屋外の檻に入れられ、臭いの問題も気にはならなかった。

          

拉古駅
拉古駅

牡丹江よりひと駅西、車で約30分行ったところに拉古駅がある。
ハルピンと綏芬河を結ぶ東西の鉄道で、昔、小島様知り合いの父君がこの駅の駅長をしていたと言う。


牡丹江を含め、満州国には多くの日本人が住んでいた証があちこちにあった。ガイドの権香玉さんは年間約400人の日本人を案内すると言う。 この地に何かしらの絡みを持ち、懐旧の念で訪れる人も多いと思う。
父もこの線路でハルピンより東寧に行ったかも知れないと、勝手に想像し、遠くハルピンに延びる線路を眺めていた。
残念ながら、牡丹江、東寧に滞在する間、一度も列車の通行を見たことはなかった。

この付近をドライブしている時、飛行機がキャンセルされた情報が飛び込んできた。やむ得ず、明日の飛行機を確認し、もう一泊牡丹江で泊まることにした。

拉古駅

ヤマトホテルは跡
牡丹江駅前のヤマトホテル跡

牡丹江で有名なヤマトホテルは既に解体され、跡形もなかった。場所は左の写真の中央部、黒いところであったと言う。下の写真は在りし日のホテルで絵葉書より引用した。

   
      
 右の写真が解体寸前のヤマトホテルである。  
 
 牡丹江駅

近代的な駅に建て替えられ、沢山の自動車が駅前を横行していた。下の写真は在りし日の牡丹江駅で、絵葉書より引用した。
戦前の牡丹江駅(絵葉書より)

                


牡丹江空港 兄弟にて
6月2日(木)

牡丹江空港10:21離陸予定の飛行機に乗り、大連到着後、その足で旅順の203高地、水師館、東鶏冠山に行く予定で空港に来た。
長年の念願が叶い、満足した気持ちで、広大な中国大陸を見ながら、牡丹江空港を背景に記念撮影をした。しかし、空港内のカウンターでは一向に離陸時間の表示がでなく、しばらくして、13:30と変更されチェックインはしたが、搭乗口に行っても、待たされ、午後3時頃、エンジントラブルで遂にキャンセルとなった。
航空会社の配慮で、我々のようにどうしても大連に行く必要があるものは、北京経由で大連に向かうよう手配された。午後4時30分、北京に向けて離陸し、北京で乗換え、大連に着いたのは夜も更けた9時頃であった。
権さんとも別れ、搭乗口では中国語ばかりのアナウンスで困ったが、親切な中国人が我々をサポートしてくれた。幸運にもその2人はいずれも日本系会社に勤める人 で、1人は台湾生まれ(費 耀富さん,Fui Yaw Fu、大阪育ちで流暢な日本語を話し、大連まで同行してもらえた。又、権さんも再度牡丹江空港まで来ていただき、色々サポートして頂き、その後、大きなトラブルもなく、大連のガイド、宋さんに会い、翌日の6月3日、無事に帰国した。 203高地、水師館、東鶏冠山は次の楽しみにした。


大陸は広い
 
もう一泊し最後の晩餐
今回の旅行を振り返って、62年の歳月を経て慰霊できた喜びは当然のことであるが、この旅を支え、成功裏に導いて頂いた多くの人々の親切が嬉しかった。 特に、反日の問題が大きくクローズアップされた今、国境を越えて、反日の感情行為を一度も感じたとなく、むしろ、好意的に色々教えて頂いたことに感激した。

牡丹江空港の出向かえから、6日間の同行・送迎と、牡丹江を中心に東西南北、約1000kmを走ってもらった運転手の李さんは、政府機関で働いたこともある人で、この6日間、一度もそのような感情行為を感じたこともなく、最後の日、牡丹江の郊外に行った一風変わった飯店では、東寧の夕食(宿泊した時)以外は一度も口にしなかったビールだが、最後の晩餐だと言って、一緒に飲んでもらえた。「朋友」と言うと何度も何度も乾杯を重ねてくれた。又、中国語の発音が非常に良くなったと誉めてくれた。

皆さん有難うございました、又お会いしましょう。
 

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東寧大肚川

ロシア連邦

靖国神社

満州

 2005年5月、長年の念願が叶い、旧満州国、黒龍江省牡丹江に兄弟で訪れることが出来た。
昭和18年(1943)、この異国の地で没した父を慰霊することが主目的であった。
亡父、齋藤悦治(
この隠れたページには、齋藤悦治の一生、及び齋藤いとの一生の概要が記載されています)は昭和16年(1941年・・筆者が生まれた年)8月9日、広島県宇品を出発し、大連経由で、8月19日に東寧縣大肚子川(現在は大肚川)に到着し任務に就いた。 約2年間任務後、発病し牡丹江第2陸軍病院で、昭和18年10月30日に戦病死した。

東はロシア連邦沿海州、南は吉林省延辺朝鮮族自治州、北部は黒竜江省鶏西市そして西部は同省都ハルビン市と接する黒龍江省牡丹江市の、この中心街より約200km東に向かった田舎の東寧県大肚川鎮がその地であった。

この地に行くため、母の記憶、靖国神社の情報、厚生労働省、愛知県庁、中国系の旅行会社等でインターネットを通じて調査したが、なかなか満足する情報が得られず、中国の東北地方への個人的訪問は困難かと思っていた矢先、小島悦行さん(愛知県西尾市在住)のホームページと巡りあい、色々ご指導を預かり念願が叶った。(有難う御座いました)


父の御霊も靖国神社に祀られている。
靖国神社は、明治2年(1869)に明治天皇の思し召しによって、戊辰戦争で斃れた人達を祀るために創建され, 初め、東京招魂社と呼ばれたが、明治12年に靖国神社と改称されて今日に至っている。
 
これは父が没してから、62年経過した今、その地で慰霊した中国東北地方の旅の記録である。

ハバロフスク