鎌倉街道のご案内        

も   く   じ
在原寺(紫燕山在原寺) 八橋町案内図
根上がりの松 鎌倉街道沿い以外の八橋
業 平 塚 (1) 八 橋 古 城 跡
落田中の一松 (2) 夜 泣 き 石(昔話)
浄教寺(久平山浄教寺) (3) 金 魚 椿(昔話)
かんぬきのない山門(昔話) (4) 明治用水緑道西井筋

 

               1 在原寺(紫燕山在原寺)(愛知県指定「名勝八橋伝説地」)

              愛知県知立市八橋町高道8一番地

在原寺本堂
十一面観音像
業平立像

 寛平年間(889〜897年)に在原業平の菩提を弔うための業平塚が築かれた折、その塚を守る人の御堂として創建されたと伝えられている。
 文化2年(1805年)9月22日に第2代売茶翁方巌和尚が、江戸梅谷から八橋に入り、業平公ゆかりの寺の荒れはてているのを見て、茶笈を
休めてこの寺を再興されました。
 また、安政初年(1854年)ころ、沓掛(現在の豊明市)より兼子義玄という人が入寺されました。義玄は芭蕉の流れをくむ俳人であり、近在俳
人の宗匠となり、数多くの門人の俳諧指導にあたった。その関係で庭内には義玄の句碑・山頭火の歌碑など数多くの碑がある。
 本尊は、在原業平の持仏であったと伝えられている十一面観世音菩薩立像(白木造り・高さ30cm)。この仏像は秘仏で公開はされていない。
他に、高さ48cmの在原業平の立像等が安置されている。

   兼子義玄句碑
  明治7年(1874)頃建立

いつもきく  家ははや寝て   遠きぬた
山頭火句碑
昭和63年(1988)建立
 むかし男ありけりという松が青く・・・・・ ・・・
 若沙(じゃくさ)句碑
昭和41年(1966)建立
ふるさとに
 ありて連立 業平忌
  藤井和風歌碑
昭和34年(1959)建立

たらはん みは住まさず れなくも るばる墓を ずねくるかな
二児の母の墓

 無量寿寺にある二児
の墓の母親の墓


                  2 根上りの松
                        愛知県知立市八橋町五輪26番地付近

                       

  根が2mほど持ち上がっていることから、誰いうともなく「根上りの松」と呼ばれるようになった。
 
安藤広重の浮世絵「東海道名所図会」のモデルといわれている。 松の根元に「鎌倉街道の跡」の碑があり、背面には、阿仏尼の「十六夜日記」の一説が刻まれている。
 八橋にとどまらんといふ くらきに橋もみえずなりぬ 『ささがにの 蜘蛛手あやうき 八橋を 夕暮かけて 渡りかねつる』
(蜘蛛の足のように広がった形のあぶなげな八橋を、夕暮になりかけて暗く、渡るに渡れなかったことだ。)


 この松は、幹回り2.7m、根回り15m、枝張り東西15m、南北12m、一番太い根回り1.5m、推定樹齢600年(松所有者磯村氏談)


                           3 業平塚(愛知県指定「名勝八橋伝説地」)

                       愛知県知立市五輪8番地付近

            
               業平塚(高さ約10m)         業平の墓(宝篋印塔)市指定文化財

「在原寺縁起」では寛平年間(889ー897年)に業平の骨を分け、この地に塚を築いたとされている。しかし、この供養等は、それより後、鎌倉末期頃に業平を偲び建立されたものと考えられる。
形式は宝篋印塔で全高は約1m。基壇は八葉複弁式で、側面には格狭間(こうざま)を刻している。塔身には梵字(金剛界四仏)を刻し、関西式と呼ばれるものである。かってはたまった水をいぼにつけると治るといういぼ神様として信仰されていたこともある。また、樹齢数百年と推定されていた古松があったが、伊勢湾台風(昭和34年9月26日)で惜しくも枯死した。


 

各地に残る業平の墓(供養塔)


業平の墓の表札
 京都の十輪寺(通称業平寺)の裏山
にある業平の墓、山頂には業平が炊
いたという塩竃の跡もある。
 滋賀県マキノ町在原にある墓業平
は晩年この地で暮らしていたとこの
土地の人々に言い伝えられている。
愛知県東海市の宝珠寺近くにある「業平塚」
業平と京都から追いかけてきた女官(あや
め)との悲しい恋の言い伝えがある。
京都の吉田山山頂にある。業平の墓としてはあまりにもみすぼらしい。表札の根元に石が5・6個つまれているだけ。
京都の十輪寺近くの大原野上羽(業平
の母親が晩年に暮らしていた里)の西
方寺の裏山の竹林にある。手前から
業平、阿保親王、伊都内親王の供養
塔と伝えられている。
 奈良にある不退寺の裏(飛び地)にあ
る業平の供養塔。高さ約2mほどの立
派なものである。
 奈良県吉野郡天川坪内にある業平の
供養塔。業平は度々ここを訪れていたと
云われている。また、ここ天川村にある天
河大辨財天には南北朝時代に南朝方の
行宮があったと伝えられている。
左と同じ天川村北小原にある業平の供養塔。当時、北小原には度々訪れる業平の相手役の女性の家があったと云われている。





   4 落田中の一松(かきつ姫公園)(愛知県指定文化財「名勝八橋伝説地」)

                        愛知県知立市八橋町大流27番地付近

  ここは、伊勢物語の第九段

 三河の国、八橋といひける所にいたりぬ。そこを八橋といひけるは、水行く川の蜘蛛手なれば、橋を八つ渡せるによりてなむ、八橋といひける。その沢のほとりの木の蔭に下り居て、乾飯食ひけり。その沢に、かきつばたいとおもしろく咲きたり。それを見て、ある人いはく、「かきつばたといふ五文字を句の上にすゑて、旅の心をよめ」といひければ、よめる。

 
 から衣 きつつなれにし つましあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ思ふ
とよめりければ、皆人、乾飯の上に涙落としてほとびにけり。


 の歌を詠んだとされるところです。 江戸時代になって尾張藩士天野信景の『塩尻拾遺』などで触れられ業平池杜若・在原寺石塔などとともに八橋十景の一つとして知られていた。
 「落田中」とは、落田(田が崩れて下に落ちる境=逢妻男川の度々の氾濫で田が崩れる所)の中という意味で、事実、以前は湿田の畦畔の上に位置していたが、宅地造成に伴う埋め立てにより現在地に移された。

※ 業平の東下りの旅は、八橋のあと、さらに進んで駿河の国(静岡県)に行き、この地の宇津の山に到って「駿河なる宇津の山辺のうつつにも夢にも人に逢わぬなりけり」と詠み、さらに富士山をみて「時知らぬ山は富士の嶺いつとてか鹿の子まだらに雪のふるらん」と詠んだ。
 なお行き行きて武蔵の国と下総の国との間にいと大きな河あり。(現在の隅田川、そしてここ墨田区に業平橋駅という電車の駅がある。いま、この駅のすぐ横で「東京スカイツリー」の建設がすすんでいる。ここ隅田川で詠んだ歌は「名にしおばいざ言問はん都鳥わが思う人はありやなしやと」である。平成の世で「東下り」といえば、八橋でカキツバタを見て、静岡県で富士山を仰ぎ、そして東京スカイツリーまでの旅である。


   5 浄 教 寺(じょうきょうじ) 

愛知県知立市八橋町神戸23番地 

 
鐘 楼 門(市指定文化財)              本 堂          

 浄教寺の創建は、建久5年(1194)鈴木左衛門尉重任が出家して観応と名乗り、天台の教法を学び建立したとされている。この寺が現存する文書の上ではっきりしてくるのは、文明18年(1486)に浄教寺僧性巌が、本願寺8世蓮如上人の教化を受け、浄土真宗に帰依し「方便法身」のため尊影を賜ったのが最初です。その頃、当寺は寺院としてではなく、一道場として岡崎針崎の勝鬘寺に所属していた。
 永禄7年(1564)正月、三河一向一揆が起こったとき、一揆に加わった浄教寺の僧が大力無双の故をもって徳川家康に召しだされ、束髪(僧から俗人になる)して、八橋茂左衛門となったことが「三河名所図会」や「三河誌」などに記載されている。

 浄教寺鐘楼門(市指定文化財)

 この門は、浄教寺十三世住職敬応が願主になり、宝暦7年(1757)に、大工・瓦工など合わせてのべ1,300人で造られた。総けやき材で作られた丈六(約5m)建ちで、間口3間、奥行2間の6脚門であり、東面している。
 柱は八寸角(約25cm)で、正面の2本は丸柱で開閉扉が付けられている。上層は入母屋造り・桟瓦葺きで、回廊を巡らし勾欄で囲まれている。
 梵鐘は延享元年(1744)に鋳造されたが、太平洋戦争時に供出され、現在の鐘は2代目である。

[かんぬきのない山門](池鯉鮒のむかし話) 

 昔、南北朝時代のころ、後醍醐天皇の皇子、宗良親王が、吉野から東の国の遠江(とおとおみ)に下る途中のことです。三河の国の八橋を通りかかったとき、賊に追われて、数人の家来とともに身を隠すところが無く困っていました。逃れ逃れて浄教寺の山門にたどりつきました。寺男が山門の近くにいました。家来があたりをうかがうように寺男にそっと近づいて、「もし、浄教寺のお庭番のお方、私どもは旅の者です。賊に追われて困っています。一晩この身をかくまってくださるまいか。」
と、頼みました。突然の頼みに寺男はうさんくさそうに、
「せっかくのお頼みではあるが、見ず知らずの人を、この寺に泊めるわけにはまいらぬ。そうそうに立ち去ってくだされ。」
と、相手にしてくれません。それでも家来は、
「決してあやしい者ではない。身分の尊いお方である。いまここで身をあかすことはできないが、東の国へ行く途中である。どうか一晩だけかくまってくだされ。」
と、必死に頼みましたが、寺男はがんとして聞き入れてはくれません。
「身分の尊い方と申しても、そんなことわかったものではない。泊められぬといったら泊められぬ。さっさと立ち去れ。」
 頼み続ける家来に向かって、山門のかんぬきをはずして、振りかざしながら追っ払いました。親王と家来たちは、夜つゆにぬれながら、暗闇のなかに消えていきました。
 しばらくたって、その人たちが、宗良親王とその家来たちであったことがわかりまし。尊いお方を追い返してしまった事を大変すまなく思いました。
 それ以来、再び訪ねて来られてもいいように、山門のかんぬきをはずしてまっていました。それからというものは、山門の建て替えがあっても、浄教寺の山門にかんぬきがかけられたことはなかったということです。

 ※歴史上には『暦王元年(1338)、北朝方に対抗するため、義良親王(後の後村上天皇)とともに、北畠親房に奉じられて現在の伊勢市から陸奥へ渡ろうとするが、座礁して、遠江国(静岡県西部)に漂着した。』という記述があるが、このことと関係ある話であったのだろうか。
 
 ※南北朝時代とは、一般的には鎌倉時代の後で、元弘の変建武の新政も南北朝時代の事件として含まれる。正確には、1336延元元年/建武3年)に足利尊氏による光明天皇践祚後醍醐天皇吉野転居により天皇王朝が分裂してから、1392元中9/明徳3年)に両王朝が合一するまでの時代を指し、室町時代の初期に当たる。

 この時代の天皇王朝には、南朝大和国吉野行宮)と北朝山城国平安京)に2つの王朝が存在し、それぞれ正統性を主張した。南朝を正統とする論者は「吉野朝時代」と称する。(インターネットフリー百科wikipediaより)


 
6  八 橋 町 案 内 図

鎌倉街道沿い以外の八橋

 @ 八橋古城跡

 八橋には、城下、登城といった地名があり、この付近に土塁や堀が残っていた事から古城があったと推定されている。
 近年の住宅開発は目覚しくつい最近まで曲輪内のみ畑地として残っていたが、残念ながらそこにも住宅が建とうとしている。
 大正7年の三河鉄道(現名鉄三河線)工事のとき、この付近より多数の人骨や五輪塔が出土した。また、発掘調査により、土塁や堀などが確認され、城跡が裏付けられた。
 言い伝えでは、村上兵部兼房という平安の頃の武士の居城といわれているが、調査によれば15世紀〜16世紀初頭頃まで存続していた事が確認された。


 A 夜泣き石(池鯉鮒のむかし話し)

夜泣き石


 むかし、無量寿寺の和尚さんが、村内を歩いていて、城跡付近で形の良い石を見つけお寺の庭石にしようと、村人に頼んで運んでもらうことにした。村人は早速運ぼうとしましたが石はびくとも動こうとしません。 そのうち、おおぜいがの人が集まってやっと無量寿寺の庭まで運ぶ事が出来ました。
 和尚さんは、村人たちにお礼を述べると、腕組みをしながら、時のたつのも忘れて、うれしそうに石を眺めていました。やがて、夜になったので寝床に入りました。しかし、静かなはずのお寺なのに何となく耳騒ぎがしてなかなか寝付かれませんでした。心を鎮めて寝ようと努めましたが寝る事ができません。そればかりか、和尚さんの耳には人の泣くような声がしてならないのです。「しく、しく、もとの所へ帰りたい。」そんな風に聞こえてきます。
 「これは大変な事になってしまった。」夜が明けるのをまって、村人にもとの所へ運んでもらうことにしました。ところが、どうでしょう、あれほど重かった石が今度は、二人ほどの力で軽々と運ぶ事ができたのです。これには、和尚さんも村人たちもびっくりしました。

 
B 金魚つばき(池鯉鮒のむかし話し) 

  今から千年もむかし。ある旅の僧が八橋を通られたときのお話です。丁度お昼時となったので、ある一軒の農家で昼食の接待を受けました。たいへんな心温まるもてなしであったので、旅の僧は、この家を立ち去るとき、「親切にしていただきありがとうございました。」「なんのお礼もできませんが、今つかわさせていただいたこの箸をここにさしておきます。」「きっと珍しい木になるから大切にするように」と言って立ち去りました。
 家の人は言われたとおりに大切にし朝晩、毎日心を込めて水をかけてやりました。やがて、芽が出て、葉が出て、木はどんどん大きくなり、やがて葉の先が3つにさけた金魚の尾のような葉をつけた椿になりました。村人たちは、この木を『金魚つばき』と呼ぶようになりました。
 ※この金魚椿は、無量寿寺や在原寺の境内、鎌倉街道沿いの民家の生垣でも見られます。写真の金魚椿は明治用水緑道沿いに植えられている木です。3月〜4月には、赤や白の花が咲きます。


 C 明治用水緑道(西井筋)

 明治用水は、愛知県のほぼ中央にある安城市を中心に知立、豊田、岡崎、刈谷、高浜、碧南、西尾市の8市にまたがり、南信州を源とする矢作川の水を豊田市水源町から引いています。矢作川右岸の約6,000haを灌漑しています。
 明治用水ができる前のこの地方は、大部分が荒れた原野でした。農民は常に水不足に悩まされ水争いが絶えませんでした。
 農民たちの苦境を救おうと矢作川の水を導こうと最初に計画したのは都築弥厚翁で、江戸時代の1808年ころでした。翁の死により計画はいったん挫折しましたが、岡本兵松、伊予田与八郎等に引き継がれ翁の夢が実現する事になりました。
 明治12年(1879)に工事が始まり、明治13年(1880)に東井筋と中井筋が完成し、やがて明治14年(1881)に西井筋)が完成しました。
 その後、何度か改修が行われ、昭和48年(1973)からは、菅水路化が行われました。現在菅水路上部は、写真のように遊歩道、自転車道、植栽帯などが設けられ地域住民に親しまれる施設として活用されている。 西井筋は、豊田市広美町で本流から分岐し安城市里町から八橋町、来迎寺町、牛田町をとおり、東海道松並木の途中から左方向へ進み、国道1号線、名鉄本線を横切り、市役所北を抜け、名鉄知立駅裏を通って刈谷道に平行し刈谷市へと続いている。
 来迎寺小学校付近では、流水帯が設けられ、かきつばたが植えられている。ここのかきつばたは赤や白の花も咲く。5月の天気の良い日に散歩してみてはどうでしょうか。

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