2002/6/16追記

修復完了しお披露目された『肴町の山車』

修復後の山車 「前山部分」
修復前の山車 「前山部分」

  肴町の山車は、幾度か修復されているが、江戸時代に作られたものと思われる、車台のうちに
輪が入る内輪式であるところから知多型に近く、精緻な彫刻が施されている。
  解体の結果、平台輪の内側に『文政十二年丑四月』の年号がみられ、台輪部分が文政十二年
(1829)に新造されたか、もしくは修復されたと思われる。また、妻台輪の内側には、年号とともに、
「大工源兵衛、重□、塗師方岡崎仙□」のほか、若い者連中として、「嘉助、松蔵、米蔵、佐吉、半
七、七蔵、源七、彦七、春蔵、庄三郎、友七、秀吉、源六、清蔵、重助、増右衛門、新蔵、林蔵」と
18名の名前が書かれている。また、車輪の内側には4っ共に「サ」と彫り込まれており、肴町の
ものであること
を示している。

山車の特徴

  刈谷の山車は、華車、花車、祭礼車とも呼ばれ、市原稲荷神社の祭礼にも使われたもので、
いわゆる大名行列の後ろに山車がつく形で参加していた。
  市原稲荷神社の祭礼に参加した山車の起源に付いて、貞亨4年(1687)に本町の山車が出た
という記録もあるが定かではない。また宝永5年(1708)に市原稲荷神社の祭礼が始まったという
史料もあるが、確実なのものは正徳2年(1712)までさかのぼることができる。この時点では、本町、
中町、肴町の3町から山車が出て、その後、寛政9年(1797)に新町、嘉永6年(1853)に正木新道
、明治10年(1877)に市原町参加をし、最大で6台出ていた。山車におけるからくり等の上演も古く
から行われており、糸からくりは安政6年(1859)まで行われていた。
  その後戦争等もあって山車の参加も変遷があったが、昭和40年頃を最後にでなくなった。
 市原稲荷神社の祭礼を伝承してきた貴重な民俗文化財である。

市原稲荷神社の祭礼
肴町の山車

修復後の前山壇箱部

修復後の前山唐破風宮殿部

修復後の上山の天井部

大幕 後ろ側の大幕には寅の刺繍かが
施されている

平成14年5月3日に修復のお披露目式が行なわれました。
その後、大名行列と共に曳き回しが行なわれ市原稲荷神社に奉納されました。