唐招提寺
御朱印のいわれ 平安時代より諸国の霊場を巡礼する時経文を写経してそれをお寺に収めて
自分や家族の無事息災を記念した証にお寺の朱印をいただいたことに始まります
自分の命が尽きた時、お棺の中に入れてもらう
唐招提寺の南大門にたたずむと、正面に金堂が見える。寄せ棟の両端に鴟尾(しび)を上げ、
ここから抜け出るように
伸び下がる下り棟の線を流れうけて両端を緩やかな湾曲で結ぶ。軒先は深くせり出している。
巨大な屋根であり、「天平の甍」は飛び切り高い空が似合う。
唐招提寺の魅力のすべてがここにある。
現在伽藍は改修工事に入っており2009年までは残念ながら見ることはできません。
鴟尾とは? 中国の伝説上の鳥であり、中世の城はこれが変化して 鯱矛になった
西側は創建時のもの、東側は鎌倉時代のもの
聖武天皇の勅命を受けた、興福寺の栄叡と大安寺の普照は戒師を日本に招くため唐に渡った。
陽州大明寺の鑑真に出会い日本への招聘を要請した。鑑真はすでに五十五歳であった。
「法の為なり、何ぞ命を惜しまん、緒人去かずと雖も、我即ち去かんのみ」
通常は人生の晩年にあたり鑑真は「法の為」 新たな苦闘の人生を選択した。
第1回の渡航は、七百四十三年に始まり、第5回の挑戦でようやく日本の到達した。
この途中で栄叡は海南島で病死してしまう
渡海の発願以来十二年目でようやく日本の到達ができた。鑑真は六十七歳になっていた。
この航海で潮風に目をやられ失明してしまう。
講堂の置くの丘の上に築地塀に囲まれた寝殿造りの御影堂があり、
この奥室に鑑真和上の坐像が安置されている。
俳人芭蕉が訪れた時感動して以下の句を読んだ
「若葉して御目の雫ぬぐわばや」 元禄元年初夏
鑑真は天平勝宝6年 東大寺大仏殿前の戒壇において聖武天皇、光明、孝謙天皇に菩薩戒を授けたが、
七百五十九年東大寺を離れ、唐招提寺を建立した。
その後東大寺の戒壇は移されて、現在の戒壇院になっている。 、
戒壇はその他には園城寺(三井寺)にも設けられた。段は三層になっており壇上には多宝塔が設けられている。
現在では「教壇」にその名残がある
天平宝字七年(763) 燃えるような若葉に季節に七十六歳でこの世を去った。
金堂の内部には本尊の 盧遮那仏坐像がある。乾湿漆箔の作りであり背後には千体物の光背を負っている。
左の間には千手観音像があるが、木芯乾湿像としては最大のものであり千の手をもっている。
なお授戒をした戒壇は金堂の西にあります
忍其が講堂の梁が折れる夢を見て、大和上遷化が近いと見て、お姿を造ったとされている
木造は目を閉じているがそれは大和上が盲目になったことを示すというよりは
瞑想に入って悟りの境地にいる高僧の表情を示していると思われる。
井上靖の「天平の甍」は鑑真を日本へ招聘する苦難のありさまを小説にしたものである
一度読んでみては
坐像は六月六日の御恩当日の前後三日間に開扉される
ここより西に約1km行くと、赤膚焼の窯元があります
かわいらしい絵柄の焼き物がたくさんあります
古瀬尭三
大塩詔山