無量寿寺


無量寿寺・本堂の写真


慶雲年間704に創建された慶雲寺が弘仁三年八橋のこの地に移され無量寿寺となったと伝えられています。
文化財は、竹製笈、月琴、菩薩半跏像、売茶肖像画、業平朝臣八橋図、出山仏、八橋古碑、杜若姫供養塔、點荼、売茶遺墨群、南紀紀行、です。杜若庭園の中には杜若姫供養塔祖風翁の墓方巖井戸のいわれ、玉川卓辻灯籠心字池、があります。
また、業平竹ひともとすすき芭蕉連句碑八橋古碑があります。


杜若姫供養塔

花岡岩で作られた塔で全高は約1m。全体に風化が著しいが基堰は矢作川流域にみられる蓮花を省略した形式のものであります。笠は五段であるが四隅の耳を欠き相輪も途中で折れており塔身の四仏の梵字もはっきりしていません。杜若姫は小野中納言篁の娘と伝えられ東下利の在原業平を恋い慕ってやっとこの八橋の逢妻川で追いついたが、業平の心を得ることができず悲しんで池に身を投げて果てたと伝えられています。この塔は姫をあわれみ、後の世に供養して建てたものと思われています。


祖風翁の墓

杜若姫供養塔と祖風翁の墓の写真
<杜若姫供養塔と、祖風翁の墓>

遺章     かきつばた 夏も むかしの なつならず

井村祖風は、延享元年(1744)江戸にうまれ、蕉風の俳諧を学び、文人との交流もあった。岡崎城の本多忠寛と親交があり、その縁で池鯉鮒宿の旅籠山吹屋と知り合い、後を継いだ。芭蕉を慕い、家業のかたわら俳諧の道に励んだ。自ら芭蕉門八世を名乗り、よく門人に蕉風を伝え、三河地方の指導的人物であった。

墓は、文化八年(1811)、弟子たちにより建てられたもので、経巻型式に造られたものは珍らしい。


方巖(売茶)井戸

方巖井戸の写真

方巖売茶翁が、紀州におもむいた折、紀伊大納言徳川治憲公より“旧跡八橋を大切にせよ”とのお言葉があり、帰寺して、心字池に水を入れるための井戸を掘る予定でしたが、病気になりその志を果たせず、嘉永二年(1819)八世朴仙和尚の代に、ようやく完成し、心字池に水を入れたと伝えられている。


八橋古碑

八橋古碑の写真

史跡名勝の地として知られたここ三河八橋は、古くから文人墨客の訪れることが多かった。この碑文は、荻生徂徠門下の秋本嵎夷が岡崎候に招かれて儒官をつとめていたとき、偶にこの地を訪れ、「八橋紀事弄王孫歌」と題して“八橋と業平の故事”についてまとめたものである。

書は門人の国分興伯機で、同門人の由良不ねんにより寛保二年(1742)に建立された。

亀の上に三五七の漢字を刻んだ碑柱が建ち、一般に亀甲碑と呼ばれている。


芭蕉連句碑

芭蕉連句碑の写真

かきつばた 我に発句の おもひあり               芭蕉

麦穂なみよる 潤ひの里                       知足

芭蕉が貞亨元年(1684)に『野ざらし紀行』を終え翌年四月上旬木曽路を経て帰庵の途、鳴海の俳人下郷知足の家に泊まり俳えんを開いた時の作といわれる。芭蕉は知足の案内でこの旧跡八橋に遊んで懐古にふけったのであろうか。

碑を建てたのは知足の子孫である下郷学海で「安永六丁酉六月」(1777)とあり、三河にのこる芭蕉句碑の代表的なものとされている。

心字池

心字池の写真

この庭園は、寺の再興者であった方巖売茶和尚が文政年間(1818−29)に、以前よりここにあった池や庭を茶庭風に改造したものと思われる。

庫裡前の杜若池を中心とし一の段から四の段まで生け垣で区切られ人の影を見ることなく杜若を眺めながら回る回遊式庭園となっている。また正面遠景には岡崎の村積山、近景には、逢妻川の清流を借景として取り入れている。生け垣には赤目貸樫・山茶花が植えられ美しく刈り込まれている。毎年五月には約三万本の杜若が咲き乱れ、多くの人々で賑う。

玉川卓

玉川卓の写真

右の長方形の石は、煎茶式庭園玉川庭の玉川卓である。この石の上に茶道具をのせ、青空の下で煎茶を楽しんだのである。

辻灯籠

辻灯篭の写真

左の灯籠は、文政年間に当時の無量寿寺客僧八橋売茶方巖禅師のために、紀州大納言治宝郷から贈られた一ついの灯籠である。



業平竹

業平竹の写真

業平の住んだと伝えられる大和国石上在原寺に、業平竹、ひとむらすすき、つつ井筒、などの伝説があり、この八橋も業平の関係により昔から植えられている。又男女竹と称え縁結びの竹とし俗に信仰される。


ひともとすすき

ひともとすすきの写真

謡曲「筒井筒」の故事にならって植えられたと伝えられている

八橋の一もとすすき穂にいでて はるばる来ぬる人まねくらん

と「三河名勝図絵」にはあります。このすすきの葉を片手で結ぶと願い事がかなえられるといふ言い伝えから、縁結びのすすきと言われている。






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