私 の 歩 み
 
 主な経歴から、その時々の思い出を思いつくままに綴りました。
 内容は、今まで公開のままであります。自慢話や勝手に良い思い出のみを紹介していますが、まとめるに際しては過去の出来事を思い返したり、過去の写真を紐説いたりして、これまでの人生を振り返る良い機会となりました。
 特に、出来事については会社の本社広報まで足を運び、入社してからの社報にも目を通しました。HPで公開している何倍もの過去を振り返ることができ、定年を迎える時期の良い出来事となりました。是非、皆さんもこれまでの歩みを紐説かれたらどうでしょうか。特に苦しい時、悲しい時に乗り切ってきた思い出は一生忘れることの出来ない財産であると思います。とこれまでの人生を振り返った一人として一言申し上げてさせていただきます。
                                 (内容は平成17年5月13日に記したもの)



生まれる〜中学校卒業まで【昭和23年(1948年)〜昭和39年(1964年)】

 昭和23年に農家の次男として、安城市和泉町(実家は現住所から北150m)に生まれ、 泉小学校(現在の丈山小学校)、明祥中学校に通学しました。


 小学生の思い出は、今の体形から想像できないですが、同級生より少し走るのが速かったことから、よく学校の代表として、 市の陸上競技場(今の市役所場所)へ個人種目やリレーで出場したことを覚えています。 しかし、賞状はもらった記憶がないので、井の中の蛙だったのでしょう。
 そして忘れられない出来事は、 小学校5年生の時の伊勢湾台風です。学校の屋根瓦が飛び、修復の手伝をしたこともありますが、当日母親と二人で離れの雨戸を無心で押さえていたこと。 心の中では、 「いつ家が飛ばされるか」という不安で雨戸をを押さえていたことは今でも忘れません。
 中学生の思い出は、入学した直後だと思いますが、掃除の時間に友達と教室でじゃれていて 、いきなり、3年生の担任教師から2人とも往復ビンタを喰らい,小学校と違い少し大人の社会に入った匂いのした時でもありました。この事は、当然両親には内緒で、私の一番の思い出です。
 当時の高校への進学率は、60%位であったと思いますが、日本電装葛Z能者養成所(現在のデンソー技研センター工業高校課程)を受験し合格をし現在に至っています。
 入社試験の面談で「不合格であったらどうする」と言われ「合格できなければ高校へ行きます」と偉そうに答えたことが今では懐かしい思い出となっています。



日本電装梶i現潟fンソー)技能者養成所時代【昭和29年(1964年)〜昭和42年(1967年)】

 社会人として踏み出した昭和39年は、東海道新幹線開業(東京⇔新大阪で当時の所要時間4時間)、第18回オリンピックが東京(金メダル16個)で開催された年です。
 当時の日本電装梶i現潟fンソー)の従業員数は、5,950名(入社前昭和39年3月20日現在:男性 3,933名/女性 2,016名)で、昭和39年は、794人が入社し、技能者養成所に50名(10期生)が入所しました。


 技能者養成所での入所式や終了式に当時の林会長や岩月社長が出席されていたことを考えると、私たちへの期待と同時にものづくりの大切さや重要性をトップ自らが考えてみえたことを感じます。
 社報(電装時報)によると、会長の終了式の激励の言葉は「技能者養成所において習得した技能知識を十二分に発揮し、鉄筋コンクリートの鉄筋に値するような立派な社員になって下さい」と記されていました。

 
当時の通勤手段は、バスや電車であり、 私は自宅から自転車でJR安城駅(じゃり道で30分は要した )まで行き、 電車で刈谷(今の本社)まで、雨の日も風の日も通いました。 自転車預か所のおばさんには大変お世話になった思い出があります。
  また3年間同じ体験をした同期生は、大変ありがたいものです。
 私が、 技能者から市政の場で働くくことができるのも彼らのお陰であり感謝をしています。


  初めてお会いする方と過去の職歴をお話をす中で、 金型製作に携わっていましたと言ってもなかなか信じてもらえませ ので、 私の財産であります技能オリンピック全国大会出場時の社報記事を探しましたので紹介します。全国大会には7名が出場しましたが、残念ながら誰もメダルどころか入賞もすることが出来ませんでした。

  後輩たちにおいては、全国大会だけでなく国際大会にも出場し、立派な成績を収めています。その過程は体験者のみしか分からないですが、挑戦している人達は金メダルを目指して頑張るとともに、今後の人生の礎となるものを体得してほしいです。



金型製作技能者時代【昭和42年(1967年)〜昭和61年(1986年)】

 養成所を終了し配属先は決まっていたものの、技能オリンピック全国大会を目指しての愛知県大会出場の訓練と全国大会出場などで、配属先での仕事についたのは養成所終了して1年余後でした。
  金型製作といっても、プレス、成形、ダイカストなどの金型がありますが、プレスでも絞り金型製作を担当してきました。 近年「ものづくり」の大切さが叫ばれますが、「たかが鉄板、されど鉄板」というものづくり奥の深さ、 難しさを体験しました。 新製品製作の時は、納期に追われて徹夜での対応、図面通りにできず、夜も眠れずに悩んだこともありますが、図面要求通りのものができた時の喜びを多くの仲間と体験しました。一度当時の仲間と飲みながら話しをしたい気分です。
私の“勲章”を紹介します
昭和49年4月受賞(26歳の時です)


       


労働組合役員時代【昭和61年(1986年)〜平成4年(1992年)】


  日本電装(現デンソー)労働組合専従役員になる前は、日本電装(現デンソー)の関係会社潟Aスモに出向しており、 出向時から生涯出向先に貢献するつもりでいましたが、新しい体験をすることとなりました。

 6年間に多くの方との出会いそして多くの学びがありました。
当初は4年間での予定でありましたが、諸事情により2年間延長しました。その2年間の経験が議員としての出発時に私を助けてくれました。

 特に、言いたいことを理解していただくことの難しさ、人と人とのつながりの大切さを体験させていただいた期間でした。
 振りかえってみると、人のために働くことの道を歩む第一歩であったかと思います。


潟Aスモの安全管理担当時代【平成4年(1992年)〜平成10年(1998年)】


  労働組合からの復帰職場は、在職部署となっていましたが、元職場が出向であったのと毎日電車に揺られて安城市和泉町から静岡県湖西市まで通勤するのは辛いことから、自宅から近い製作所へ復職をしたいと思っていましたが、潟Aスモからのあたたかい言葉をいただき、再度お世話になることになりまました。 今度は技能職ではなく事務技術職に変わりました。仕事は、働く人の一番大切な安全管理を守る業務を担当しました。
 ここでは、労働組合での経験・体験が役立ち、問題解決に本音での話し合いのできる環境ができ、他社に 「自信と自慢のできる安全に働くことのできる職場づくり」を取り巻く人たちの協力でできたと自負できる期間であったと思っています。 


市議会議員へ【平成10年(1998年)〜】

市議会議員になっての出来事・思い出は今後別ページで紹介します。



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