西運寺(狸寺)


 松風山西運寺と称し、慶長元年(1596)に雲海和尚が向島橋詰町に創建し、貞享3年(1686)に上総屋敷跡に移転した。これが現在地で、裏山に上総の地名が残っている。

 その後、住職が度々変わったり無住職の時代があったりして次第に荒廃したが、明治16年(1883)、寛兆和尚が就任すると、本堂を大改修し、書院を新築、庫裡を改築し、現在の基礎を作った。

 その後も代々の和尚が書院・参道の改修、年別過去帳・戸別過去帳の新編纂、本堂・地蔵堂・山門の改修をし、現在の形となった。

 江戸末期頃、冠道和尚が裏山にいた雌狸に餌付けをして馴らした。裏に出て「八」と呼んで手を叩くと裏山から下りてきて、飼い犬のように馴れ親しんでいたという。動物園などなかった当時、これを聞いた俳人、歌人、画家、陶芸家、彫刻家や興味を持った多くの人々が狸の見物に訪れ、次第に近隣に知られるようになり、いつしか「狸寺」と呼ばれるようになった。


 近所に居住していた陶芸の名人、初代道八が狸見物のお礼として、最初に焼いた等身大の狸の置物を寄進した。寛兆和尚の頃まで現存していたが、いつの間にかなくなってしまった。

 その後、この言い伝えにより、寛順和尚が狸の置物の蒐集を始めた。今も引き続き、コレクションが続けられている。




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