左武徒貉の伝説



寒戸神社

 
昔、関のあたりは入江になっており、能登からの船が出入りしていた。そのころ関の寒戸(左武徒とも書く)という雌貉が住んでいた。寒戸は佐渡貉の統領、二つ岩団三郎貉の四天王の一匹で、団三郎の女房ともいわれた。

 この寒戸はお杉という美しい娘に化けて、夜道を通る男たちをだましていた。ある晩、村の男がお杉に誘われていっしょに寝た。そして明け方見たら、女は細い石になっていた。このため村人たちは、
  関のお杉は魔性の肌よ
  一夜抱せの石となる
という俚謡にして歌った。

 ところがある年、
魔性の肌を持つお杉が、「よそものに肌を許すな」という貉の掟を破り、さらに、「庚申の晩は男女いっしょに寝てはならない」という禁まで破って、庚申の晩に能登の船頭と船の中で寝た。するとその夜、裏の知行山が大音響とともに崩れ、一夜にして港を埋め、停泊していた船もろともお杉も船頭も土砂の下敷きになって死んでしまった。村人たちはこれをあわれみ、船が埋もれていると思われる場所に祠を立て、側に一本の杉の木を植え、その霊を弔った。

 この神社は最初お杉神社といっていたが、社殿のある付近は大きな石が積み重なっており、その隙間の地底から冷たい風が吹き出しているので、永禄年間に新しい社殿を建築してから「寒戸神社」と呼ぶようになった。毎年正月十六日に行われる氏神さまの祭礼に、弓で的を射る行事があるが、この的の周囲を飾る杉の葉は、お杉の死体の上に植えた寒戸神社の杉の葉を使用することになっている。

 この地方の俚謡に、
   関の寒戸に灯明あがる
  どこの十九があげたやら
というものがあり、貉の化けた娘お杉と、能登の船頭との実らぬ悲恋物語を伝えている。

(小山直嗣著 新潟県伝説集成 佐渡篇 より)


貉の荷物を運ぶ船

 関に大杉神社としてまつられている「左武徒」という貉は、佐渡貉の総大将相川の二つ岩団三郎の四天王の内に数えられている。

 むかし、関のサンパ船(小形の廻船)が相川へ木炭や薪を運んでの帰りには、女に化けた団三郎が左武徒への荷物をことづけたということである。その時には、寒戸の場所をかくすため、関崎の貉穴のところへ、蓑傘姿で出ていた。そして、ことづけられた荷物は、船の上から渡された。

 相川から左武徒へ荷物を預かると、必ずアイの風が吹いて、追手となり、船は艪を押さなくともよかったのでよろこんだ。ある時、若い「かこ」(水夫)が、この預かった荷物をこっそりあけて見たら通草(あけび)と葡萄であった。「かこ」は腹がへっていたので、食べてしまった。そうすると、鹿の浦付近へ来ると、風が急に変わり、船は難破して乗っていた人々は皆死んでしまったという。

 こうして団三郎から荷物を、相川から関まで運ぶ時に、夜の場合は、いつも陸地に点々と火の玉がつづいて、その航海の安全を守ったともいわれる。

 (山本修之助編著 佐渡の伝説 より)

                 

戻る