団三郎貉の伝説
(山本修之助編著 佐渡の伝説 より)

団三郎貉の「団三郎」の由来

 佐渡貉の総本家―大親分といわれる相川町の二つ岩の団三郎狢の「団三郎」という名前については、こんな話がある。

 むかし、相川金銀山で、鞴の皮に貉の皮が一番よいといわれ、そのころ佐渡には貉がいなかったので、越後の国の商人から買い入れた。その時の商人の名前が団三郎といったので、そのまま貉の名前となった。

 その時、山野に放した貉が繁殖して、佐渡は貉の一大王国となり、全国的に有名となった。

(付記)
 この話は、『佐渡奉行代々記』に記載され、「明暦三酉年」と年号まで書いてある。


金を貸した団三郎貉

 むかし、二つ岩の団三郎貉は、人に金を貸した。

 金を借りたいと思う人は、その金高と返済の日限を書き、それに自分の名前と印判を捺して、この団三郎狢の住んでいる二つ岩の穴のかたわらに置いた。そして翌日その穴のかたわらへ行ってみると、金を貸してくれる時には、そこに金を揃えてあった。

 のちには、この金を借りる者が多くなってきて、ついには返さない者も出てくるようになった。そのため、もう金を貸さなくなった。


(滝沢馬琴 燕石雑記)


団三郎貉の化けくらべ
             佐渡に狐がいないわけ

 むかし、二つ岩の団三郎貉が諸国を旅していた時、狐に出あった。狐は、われわれ仲間を佐渡に住みつかせたいとたのんだところ、団三郎貉は承知した。

 しかし、よほど上手に化けて行かないと、ひどい目に逢うから、何か変わったものに一つ化けて行ったらよかろうといった。狐は、「そうか、では何がよかろう」と相談をした。団三郎貉は、「おれは、ちょうど旅人に化けて行くつもりだから、お前は下駄に化けて行ったらどうだ」というのである。

 狐は、さっそく下駄に化けて団三郎貉の足に履かれて船に乗った。沖合いに出てから、団三郎貉はその下駄を脱いで、海の中へ投げ込んでしまった。狐は、そのまま死んだのである。

 こうして、佐渡へは狐は渡って来ることができなかったというのである。


貉を治療した医者

 享保のころ、相川町柴町に窪田松慶という外科の医者がいた。

 ある冬近い亥の刻(夜の十時)ころ、これから寝ようとしている時「窪田松慶様のお宅はこちらでしょうか」と問うものがあった。答えると「実は急病人ができたので、お迎えにまいりました」という。松慶は「それでは、金瘡(きんそう=槍や刀による傷)などであるか」と聞くと「はい、手負人であります」と答える。松慶は急いで迎えの駕篭に乗ると、暗い夜を飛ぶように走り、一里ばかりも来た。すると、向こうに両方に開く大きな門が見えた。

 これはどこだろう、こんな門のある家は、相川町の近在にはないはずだとふしぎに思った。そして、式台のところまで行くと「窪田松慶様、おいで」という声がした。すると羽織袴の四、五人が出迎える。駕篭からおりて、家に入ると、この世のものとは思われないほどのりっぱな床飾りや武具などが飾ってある。客間へ通ると、二十畳敷もある広さで、そこには、炭火を小山のようにおこし、火鉢や煙草盆をならべて、待っているようすであった。

 そのうち、羽織袴に、長い脇差を差した五十歳あまりの人が出て来て「これは、これは、松慶様、遠方よりよくおいで下さいました」と丁寧な挨拶をした。そして、お茶やお菓子を出したが、その茶の香りは、田舎には珍しいものであった。

 二、三椀いただいてから「ご病人は、どちらですか」と問うと「しばらくお待ちください。主人へ申し上げますから」といって奥へ入った。しばらくしてから七十歳あまりの老人が白小袖に十徳を着て出て来て「松慶様、これは、これは恐れ入りました。さて、愚老の末子が怪我をいたしました。どうも金瘡のようですが、ご診察を願いたい」と、いうことであった。

 そして案内されるまま奥の部屋に入ると、そこには金銀の屏風を回し、病人とおもわれる十三,四歳くらいの美少年が、蒲団を高く積みかさね、その上に鉢巻をし、白い小袖を着て脇息によりかかって顔をしかめていた。傍に寄って、疵を見ると、切先で突いたようなところが二か所あった。

 松慶は「これは、たいしたことはありませんから、ご心配なさらぬようにして下さい。血が止まると疵は小さくなります。この血止め薬をお用いになって、その上へ私の調合した膏薬をおはり下されば、痛みも止まり、きっと全快いたします」と、いうと、老人をはじめ一座の者は大よろこびであった。そして、たいへんなご馳走になった。

 それから駕篭で自分の門前に着いた。家に入って駕篭の衆へお茶でもあげたいと思って出てみると、もう人影がない。召使の男に追いかけて、主人の名を聞くように言ったが、まったくなんの手がかりもなかった。

 その夜、下戸番所の寺田弥三郎という侍が、番所から自宅への帰り道、暮六つ(夜6時)この裏通りの小路にかかると、暗い夜で方向がわからないようになった。どちらへ行っても行きづまり、家へ帰ることがてきなかった。これはたぶん貉のしわざであろうと、刀を抜いて切り払うと、手ごたえがあった。それから、明るくなって、どちらへも行けるようになった。

 大津屋小右衛門という問屋の門口の灯りで、刀をすかしてみると、切先に血がついていた。この弥三郎が、切りつけたのは、窪田松慶の治療に行った二つ岩の団三郎の貉であろうということであった。


(怪談藻塩草)


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