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昭和前期の西尾茶 |
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まず対外国際政策が不穏さを増し開戦の兆が顕著となった昭和13年までの西尾茶の推移をみることにする。
『愛知県統計書』からまとめた幡豆郡内の茶畑面積の推移をみると、この時期に至っても幡豆郡内のほぼ95パーセントは市内の茶畑であった。
明治40年代に急増した市内の茶園面積は、大正年間にはやや中弛みの傾向を見せて、末期に回復したものの予想外に発展はなく、むしろ安定したかに見えた。
この傾向は昭和初期にも続いた。
昭和2年は渥美郡が62・2ヘクタールで首位、幡豆郡は2位であったが、同3年には北設楽郡が42・3ヘクタールでわずかに幡豆郡を抜いて2位となった。
翌4年には再び北設楽郡を上回って、渥美郡の減少したこともあって首位に迫った。
その後の幡豆郡の茶園面積は、昭和7年にはじめて45ヘクタール台になって以来、再び発展の兆をみせ、11年には88ヘクタール余と一躍90ヘクタールに迫った。
これは明治45年の北設楽郡の茶畑合計面積89・5ヘクタールに次ぐもので、見積反別を除けば北設楽郡より19・2ヘクタールも多く県内では史上最高の茶園面積を形成したのであった。
明けて12年にはまたしても減少しているが、しかし昭和5年以来県下首位の面積を保持した。
また、幡豆郡以外の県下の主要茶業地の茶畑面積の推移を幡豆郡の茶業振興と県内の茶業との関連をみる参考に掲げると、大正末期に飛躍的な増反を実現した渥美郡の茶畑面積は、昭和に入って中弛みの現象をみせる。
昭和2年の62・2ヘクタールをピークに、翌年から減反した。
しかし、5年38・5ヘクタールを低限として再び増反し、56ヘクタール以上でほぼ安定したように見える。
北設楽、額田、碧海、八名各郡を概観すると、北設楽郡は29ヘクタール前後で安定した。
額田郡は中弛みの傾向が見られるが、ほぼ17ヘクタール前後で安定した。
額田郡は大正期同様またしても中弛みの現象を見せ、6、7年には10ヘクタールを割ったが13年には辛うじて20ヘクタールに回復した。
八名郡はなお減反し、11年以降10ヘクタールを割り13年には8・4ヘクタールとなった。
すでに茶業地としての性格を失っている。
これに対して、南設楽郡がこの期間中は3、4年に10ヘクタールを割った以外は、10〜13ヘクタール前後で安定している。
また、豊橋市が9年に10ヘクタール台にのせ、13年には14・1ヘクタールとなるなど、旧来の県内主要茶業地の交替の兆候がみられる。
以上のような県内主要茶業地の茶畑面積の推移は、県全体の面積に大きく影響し、その伸び悩みが顕著に表れている。
大正期に中弛みして、末期には回復したものの250ヘクタールを割っていた県全体の茶畑面積は、昭和2年に約240ヘクタールであったが、再び中弛みして同5、6年には200ヘクタールを割った。
その後増反し、11年には300ヘクタールに迫った。 |
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