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「監督さん」 |
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遠隔地の親戚から茶園主の家へ泊り込んで働く者など特殊な例を除けば、摘み女は市内、幡豆郡、碧南市東部、安城市南部の範囲内であった。
茶園主は労働力を確保するため、これらの地域で1名の「監督さん」を頼んでいた。
「監督さん」は、ほとんど男性でいわば茶園主に対する摘み女の周旋人で、時期が来れば現場監督にもなった。
適当な親戚や知人などに頼んでその周辺から摘み女を紹介して貰う場合もあれば、特定の1人を頼む場合もあった。
暇があり、世話好きな人が対象となる。
中には、数人の茶園主の労働力を周旋していた者もあった。
反面、市内で1人、碧南市で1人と2名の「監督さん」を頼んでいた茶園主もあったが、作業上縄張り根性がでて芳しくなかったという。
摘み女の募集、周旋と茶摘み作業の現場指揮、能率を上げるための監督までを受け持つ要員であるため、茶園主にとっては気心の知れた者でなければならない。
茶摘みシーズンが近づくと茶園主は、あらかじめ摘み女の必要人数と時期を定めて、その員数に見合った品物を届けて、今年もよろしくと周旋を依頼する。
茶摘みがはじまると「監督さん」は、茶園主の指示にしたがって、摘み女を指揮し作業をはじめる。
その際、茶摘み技術の指導や作業の監督など摘葉作業一切の責任をもって行うのであった。
したがって茶園主との結びつきは緊密で、茶園主は盆正月の中元、歳暮は勿論、常日頃の付け届けによって誼を厚くし、適切な指揮による能率的な作業を期待するのであった。
摘み女周旋人の存在は、大正末期から昭和10年代の間の様子として聴きとりした結果である。
しかし、形態こそ変われ現在もなお存在している。
なお、戦時中は極端な人手不足のため、茶摘みは学童を動員したり、花柳界の勤労奉仕なども受け入れたという。
今日でも学童の労力に頼る茶園主は多い。 |
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