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経営収支 |
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上等な茶は輸出市況の悪化など不況の影響は比較的少ないが、反面品質の良否に対する価格的評価はきびしい。
しかし、総じて高値で取り引きされるという有利な点がある。
市内では明治41(1908)年頃から、茶製品の品質向上と茶業の合理化をねらった顕著な動きがみられるようになった。
明治41年に杉田鶴吉が、10アール当たりの収支を見積もったものをまとめたものがある。
「古茶園」とは、幡豆郡茶業組合が模範茶園として設置した試験圃で、この圃場は明治35年5月に杉田鶴吉から10か年契約で借りている。
おそらく、紅樹院の足立順道が明治5年に播種した茶園であろう。
古茶園10アール当たりの収益が46円20銭であるが、他の栽培7年目の茶園と5年目の茶園と比較すると、樹齢の高い茶園ほど収益が多くなっている。
明治41年頃の年平均米価は玄米一石当たり約16円(『日本歴史辞典』「米価表」)であったから、栽培7年目の未成木園の収益が水稲栽培の平均的収益にほぼ匹敵するものであったとみられる。
このことは上町周辺の水田化の困難な洪積台地を利用した茶園で、先行き上田収益をはるかにオーバーすることが期待でき、周辺農家を新たな茶園開設へ誘ったものと考えられる。
経営内容をみると、支出のうちで最も大きなのは肥料代である。
良質な茶を生産するためには、大量な有機質肥料が必要なことは当然である。
しかし、古茶園では支出総額の約35パーセント、新茶園では42〜23パーセントを占める肥料代は、かなり大きな負担であったにちがいない。
これに対して、きわだって小さいのが「生葉摘葉賃」、すなわち茶摘み賃である。
支出総額中に占める割合は約6〜11パーセントで、当時の労働慣行や労力の需給事情を反映している。また、
古茶園の「年貢米」料は茶業組合が杉田鶴吉に支払う年貢(借地料)で、20円80銭(一石三斗)は支出総額の約15パーセントを占めている。
したがって、この古茶園を自園経営する場合は67円の収益が見こめることになる。
収入については、「玉露売上額」がほとんどすべてである。 新茶園については、玉露に換算したものであろうか。
現今の品種物といわれる茶樹ならともかく、当時の茶樹ではでは5年生や7年生の茶樹から玉露茶を生産するのは不自然で
ある。
あるいは、西尾茶の当時の玉露茶の実態であったかもしれない。
3・75キログラム当たりの単価は約5円30銭から4円15銭(1キログラム当たり約1円40銭〜1円10銭)と見積もっている。
古茶園の単価がた高く、樹齢の若いものほど安価である。
それにしても茶業者は、これだけの収入を確保するためには製造面ばかりでなく、販売面についてもそれ相当の努力が必要であったと考えられる。 |
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