西尾市茶業組合 EXPO
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概要
  農家の組合加入と茶園の形成

 「茶業組合証票名簿(上町杉田寛清蔵)によって、明治18(1885)年度までの組合員の加入状況をまとめたの。
 明治36年以前すなわち日露戦争前は、加入組合員の住所が郡内各地に散在し、その業態も茶の生葉を買って製造(加工)して販売する者や製品の販売(小売)者、あるいは生葉の仲買人がほとんどで、茶園経営者は極めて少ない。
 これに対して、翌37年には新規加入者10名中7名が茶経営主で、いわゆる茶生産農家の加入が際立っている。
 これらの加入者は、茶の加工をしない者で、自園で摘んだ生葉を加工者や生葉仲買人に販売している。
彼らは少なくともこの時点では、生葉10貫(37.5キログラム)以上を販売(「幡豆郡茶業組合規約」第一章第一条、但し書き)できる生産をしていたが、比較的小規模の茶園主であったと推測される。
そして翌年からは、茶の製造販売をも営む茶園主の加入がほとんどとなる。
しかも、41年までの3年間の組合加入者は23名でうち19名が上町の茶園主である。
このころから、本格的な茶園経営者が上町」一帯で集中的に現れ今日の西尾茶の基盤を築くのである。
 当時の茶樹は播種して育成したもので、苗を入手して移植することはなかった。
また、栽培技術の低い時代のことであったから、播種後成木に達する期間は15〜20年間を要した。
これから考えると、幡豆郡茶業組合の創立された明治十七年前後から五年ぐらいの間に上町一帯の茶園形成の基礎ができあがったといえよう。
 茶園経営者の地域別分布をみると、明治26年までは西尾市街の東部寄近、丁田、今川の地で茶園が多かったことが想像される。
この地区は、茶の海外輸出をもくろんだ高橋下登見爾の周辺である。
幡豆郡では、明治26年に組合加入した萩原村饗庭の岡田与五兵衛がただ一人自園を持ち茶の加工をしていた。
上町村は、明治30年から製茶業者が見られる。
彼等は地元の生葉を買い集めて加工したもので、製茶工場が立地する素地のあったことが想像される。
たとえば稲垣武八は、明治17年にすでに五畝(5アール)の茶園を持ちながら、組合加入は30年で、しかも「茶製造、茶販売」として証票を得ている。
生葉生産より加工販売にウエイトを置いていたのである。
当時の西野町村は、畑では藍、桑、綿の栽培が中心であり、その「畦間で茶樹を栽培」(『愛知県特殊産業の由来』下巻)していたという。

杉田鶴吉の活躍
 明治初年に芽ばえた西尾茶の生産は、実質的には明治38年頃から上町を中心に
その勃興期を迎えた。その推進力となった一人、杉田鶴吉の生い立ちから茶業者として
成長する過程やその活躍ぶりを、彼の履歴書(上町杉田寛清蔵)その他から要約して
みよう。

明治 8年    11月5日上町杉田伝四郎の二男として出生。
明治28年    11月6日分家。
明治33年    5月上町高須松太郎方で茶製造従事。
明治34年    5月「宇治上坂清太郎 茶製造」のため出張。
         宇治榊原喜右衛門、関口方で製茶研究。
明治35年    4月28日幡豆郡茶業組合へ加入
         (組合証票番号107号業種「製造販売」)、紅樹院の茶園三畝歩を預る。
         宇治より茶種を買い入れて蒔く。釜道具(製茶用)一式買い入れ。
         以来「茶業ニ鞅掌シ傍ラ農業ヲ督ス」とある。
         宇治郡小幡村松尾清之丞方で製茶研究。
明治36年    5月宇治の松尾清之丞方で1か月間製茶研究。
         幡豆郡製茶同志会の発起人の一人となる。
明治38年    5月宇治の松尾清之丞方で1か月間製茶研究。
明治39年    11月5日第三回三河物産共進会出品、受賞。
明治40年    4月名古屋市第二回品評会出品、二等賞。
         5月八帖(岡崎市)の深谷彦八方へ、製茶教授となる。
         5月11日京都市第四全国五二品評会出品、二等賞。
         7月牧ノ原(静岡県)で開催の
         静岡県茶業研究会第1回講習会に出席、技術実習を受け
         る。
         7月27日日本茶業研究会支部静岡県茶業研究会に入会。
         8月9日幡豆郡茶業組合製茶協議会参加、一等賞。
         巡回講師を命ぜられる。
         10月16日名古屋市第二回物産品評会審査員。
         10月30日東京市日本茶業奨励品評会出品、受賞。
         11月10日韓国京城博覧会出品、受賞。
明治41年    2月20日名古屋市第4回内国物産品評会幹事。
         3月幡豆郡茶業組合組長。
         愛知県茶業連合会副組合長。
         3月24日山梨県甲府第1回衛星工芸品共進会出品、3等賞、銅牌を受け
         る。
         5月幡豆郡茶業伝習所長。
         幡豆郡製茶共同製造所長。
         八帖の深谷彦八方へ、製茶教授となる。
         5月5日京都市第5回生産品博覧会出品、「御買イ上ゲヲ受ケ名誉賞牌ヲ
         受ク」。
         6月愛知県製茶研究会長。
         大阪市全国名産博覧会出品、「有効銅牌ヲ受ク」。
         6月5日三河第1回東海物産品評会出品、「名誉金牌ヲ受ク」。
         6月18日郡是調査茶業組合補助委員。
         10月1日名古屋市第3回物産品評会審査員。
         10月25日名古屋市第10回五二品評会、「有効銅牌ヲ受ク」。
         11月
          「米国艦隊歓迎ノ為茶寄蔵シタルニ対シ東京茶業組合中央会議所ヨリ謝
         状受ク」。
         11月1日京都市全国物産品博覧会出品、「名誉賞牌ヲ受ク」。
         11月5日長野市1府10県共進会出品、「四等賞牌受ク」。
         11月7日名古屋市第4回内国物産品評会出品、「有効銀牌を受ク」。
         12月20日三河第1回定刻生産品共進会出品、「名誉金牌ヲ受ク」。

 以上は、杉田鶴吉が茶業をはじめた初期の業績をまとめたものである。
農家の二男として生まれた彼は、20歳で分家し、25歳の時茶師の道に進んだ。
2年後の明治35年には西尾茶ゆかりの紅樹院の茶園を預かって栽培をはじめ、ほかにも宇治の茶種を蒔いて茶畑の造成をはじめた。
履歴書に「専ラ茶業ニ鞅掌」とあるのが印象的である。
 彼はその後も一貫して上等茶の加工技術の収得とその普及につとめた。
そのために生ずる生産性、経済性の問題等、西尾茶の基盤ができ上がる明治40年代から大正初期にかけての彼の活躍には注目すべき点が多い。
彼の研究熱心なことについて、静岡県茶業研究所(日本茶業研究会牧ノ原支部)の指導的立場にあり、西尾茶の製造技術に大きな影響を与えた栗田和作が明治40年7月に杉田鶴吉にあてた書簡の末尾に「茶業上ニ付キ御熱誠ナル事感ジ仕り 将来益々御交詮ノ程懇願仕リ候」(上町杉田寛清蔵)と述べていることからもその一端がうかがえよう。
また「本郡特産物なる製茶とその販売を家職とし、夙にその改良を叫びて努力せり。君は宇治、山城、名古屋、信濃、東京、その他の茶業品評会審査員を嘱託せられたることあり。(略)大正5年西尾町会議員に当選するや、町政の刷新に意を到して功あり。
質性快濶にして一面粗暴の如き憾みあるも、尚快男子たるを失わざる所あり」(幡豆当面之人)と評価されている。
昭和34年8月20日、84歳で没した。
明治30年代の終わりから、製茶の研究気運が大いに高まり、各種の研究会が持たれ、それが今日の西尾茶の隆盛の基盤となっているのであるが、杉田鶴吉はこれらの研究会のどれにもかかわりを持っていた。
以下にこうした活発な研究活動について述べよう。

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