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寄近村の神官 高橋下登見爾 |
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「明治5、6年の頃、寄近に高橋下登見爾あり。
伊勢より茶種を取り寄せ、居村、及び古新田村(志貴野町)に茶園を設け、専ら輸出向けの煎茶を製造して、横浜の問屋に送り、最盛時の明治15(1882)年頃には、産額900瓩(キログラム)に及びたりしが、爾後、不況の為漸次業務を縮小し、40年頃(明治42年にはまだ茶業組合の役員として活躍している。)には全く廃業に至れり」(『西尾町史』下巻)という。
高橋下登見爾は弘化4(1847)年11月7日、寄近村二番戸の高橋郡次の長男として生まれた。
『西尾町史』下巻によれば、25、6歳のころ茶園を造成したことになる。
残念ながら下登見爾の輸出茶の製造については、史料が全く遺存しない。
高橋家は、八ツ面城主荒川家の家老中神藤左衛門(『西尾市史』二 207ページ)の末裔の分家で、その祖先に医師高橋仙渓があり、下登見爾の祖父にあたる。
また、、この地方の地主で、隣接法厳尼寺は、かつては約五町歩の農地を所有していたが、これは同家から二代庵主が出たこともあって寄進したものと伝えている。
こうした関係からか、明治初年ごろには、父郡次が隣接法厳尼寺の世話人惣代(明治8年「地引帳」)を勤めていた。
高橋下登見爾は、細池町から八ケ尻町一帯の神官を勤めていたが、寄近村の地主惣代(明治17年「地引帳」)でもあった。
彼が茶園を造成したのは、明治8、9年頃(林口孝『西尾茶の経済地理学的研究』)ともいわれる。
茶園造成の動機も明らかではないが、彼は、紅樹院の檀家であり、足立順道の奨め、あるいは二人の協議によってはじめたものと思われる。
林口孝の調査によると、下登見爾は茶園面積三反(30アール)、茶園は「堤外耕作」(同上)とある。
古老の話によると、明治四十年には、矢作古川堤の内側の河川敷(新田という)に三反と本畑に一反計四反(40アール)の茶畑があって、長男実太郎が栽培していたが、のち河川敷は洪水時の水害が大きいため桑園に転作した(寄近町高橋斧吉談)という。
下登見爾の殖産産業に刺激されてか、その近在で市内では比較的古くから茶畑を造成するものがあった。
なお、『西尾町史』下巻の記述によれば、茶園は播種した10年後の、最盛期で生産量は900キログラムに達したとあるが、当時の茶栽培技術では、土壌の条件を考えに入れても播種後茶樹が成木になるには15年間は必要である。
また、当時の成木園の生葉の生産量は10アール当たり750〜800キログラムと想像される。 |
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