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茶園造り |
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再び紅樹院の過去帳をみよう。
「転任の初年に先ず境内荒蕪の智を開墾し翌年始めて茶を播き味(蜜)柑を植え 手ずからこれを培養し一日もおこたることなし 或いは数日の間他において布教し 或いは雑務に障られて自ら耕すに暇なきときは 則ち傭者に命じて耕さしむ また数月の間数十里の外に巡回するときは 則ち予め耕法を傭者に命じて 而して書を以って時々嫩葉生長等の可否を余に問う
若し失するときは 則ち委細に培養の法を来示す 孜々黽勉すること皆これに類す(略) 明治13年以来漸く其の結果を見る 是において五六の大衆相続することを得る也」(上町紅樹院「過去帳」)
荒廃した寺院の再興に、或いは寸暇を惜しんで公益に尽くし、また殖産興業をもくろんだ僧順道が自ら汗を流した努力がうかがわれる。
従来足立順道は、宇治から茶種を入れて栽培し、宇治の製茶技術を導入したことで有名である。
文献によってその記述をみると、
(1)明治3年に西野町村上町紅樹院住職足立順道師が京都本山智恩院に議員として赴き、この地方の風土が宇治に似て居て茶の栽培に適することを思考し、寺の経済難救助のいったんともなろうことを願って下洛の際宇治より種子をとり寄せ栽培したのに始まっている。
この茶園の起源は静岡県の牧ノ原の茶園と起源は等しい。
師は紅樹院境内の藪を開拓して三段(反)歩の茶園を作った。(林口孝『西尾茶の経済地理学的研究』。昭和6年)
(2)「明治5年、山城国宇治より茶の種子を持ち帰り、翌年、これを播種せり(略)成績頗る良好なりしを以って、紅樹院の近くに40アールの茶園を作り、且つ、宇治(京都府宇治市)より技術員を雇い来りてその改良発展に尽力せり」(『西尾町史』下巻昭和9年刊)
(3)明治5年西野町紅樹院仙台住職足立順導(道)師が、京都本山智恩院に上洛の折、西野町と宇治との風土の類似せるより茶の栽培に適すと思い、宇治より茶種を購い来て、翌年、紅樹院所有の東北隣の畑(桐畑と称す二段歩)に播種したのを以って起源とする(高須久治郎『愛知特殊産業の由来』下巻。昭和17年)。
などが主なものである。
いずれもその出典は『過去帳』で、多少の枝葉がついている。
これらを前掲の「過去帳」の記録によって検討してみよう。
(イ)「転任の初年』とあるが、足立順道が紅樹院住職として入寺したのは明治5年である。
この年に『境内荒蕪の地を開墾』した。
(ロ)明治6年に茶種を播き、蜜柑を植えたとあるが、茶種が宇治のものであるか否かは記述がない。
順道は紅樹院の本山智恩院へ行った可能性はないではないが、この過去帳では順道が本山へ上ったのは、特命を受けて「明治11年始めて』尼崎へ出張した時に本山へも寄ったであろうし、その時が順道がはじめて本山へ行った時という想像もできる。
その後は本山で執務したこともある。
上記の二点について考証すると、(1)境内を開墾して造成した茶園は、現在の境内の東北の隣接地、すなわち「頌徳碑」(「順道和尚追悼碑」大正2年12月茶業者が建立)の北側の畑で、その茶園はほとんど現存している。
ただし、農地改革後三名の農家の所有となった。(2)茶種は、蜜柑との混植でおそらく蜜柑苗の畦間に蒔いたであろう。
この畑(開墾地)は「周囲に桐があって明治15年頃まで人の記憶にとどめた」(『愛知県特殊産業の由来』下巻)という。
順道の殖産興業は、茶、蜜柑、桐の栽培であった。(3)順道が造成した茶園面積は、二、三、四反の三説があるが、後述する理由から約40アールと考えられる。
明治17年茶業組合加入茶園反別
「大衆相続」
茶四反(三反) 上町 足立明(順)道
茶五セ歩(一反) 上町 稲垣武八
茶(三反) (寄近村)高橋下登見爾
茶 (寄近村)高橋助蔵
茶(一反三畝) (上町)高須松太郎
茶七セ歩 (上町)小林幸衛
(茶八畝 上町 杉浦甚三郎)
ヨセめ(寄せ芽)茶製造人 西尾 永吉茶吉 (上町杉田寛清蔵)
右は杉田鶴吉(後述)が記録した一片のメモで、( )内は林口孝『西尾茶の経済地理学的研究』等によって補足したものである。
これによって順道が40アールの茶園を栽培していたことが知られる。
その茶園は、『上町浜屋敷85番 二反二畝十八歩、同86番 一反一畝二七歩、同86番1 80.83坪(宅地)、同88番3 八畝八歩」(『西尾町土地法典』昭和八年)の範囲内と考えられる。
地元ではこの地を桐畑と呼んでいる。
前掲過去帳の末尾に、『明治13年以来漸くその結果をみる」とあるから、播種後8年目にして始めて茶摘をしたのであろう。
また、「是において五六の大衆相続」とあるが、これが上の者たちであったのではないか。
足立順道は明治20年8月2日、48歳で没した。
御届
幡豆群西野町町村大字上町無番
足立明道(順道の次代紅樹院住職)
一今般私儀 従来ノ茶園畑ヲ別紙願い人ヘ小作預ケ仕リ度ク候ニ付キ コレ依リ本年ヨリ茶業ヲ廃シ度ク候間 組合証票規約ノ通り返還仕リ候也
明治二十九年四月廿七日
上 足立明道 印
幡豆郡茶業組合御中(上町杉田寛清蔵「開廃業届書綴」)
紅樹院は順道が没したのちも、甥の明道が茶の栽培をしていた。
明道は後年眼病を煩い失明した。
明治29年といえば33歳のときであったが、その弟子(実は甥)誠道はまだ入寺していなかったので、健康や寺務の関係で廃業したのであろう。
そして、紅樹院の茶園は、「上町二百四拾番一番戸高須弥三郎」が、同年三月廿六日付けで幡豆郡茶業組合に加入して経営した。 |
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