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明治初期の茶の栽培 |
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茶の生産は、安政六(1859)年五月の開港以来、茶が生糸につぐ重要な輸出品と目されるようになると、とくに駿河(静岡県)、遠江(同上)方面の産地で活況を呈してきた。
一方、伝統的産地として古くから有名な宇治では、進んだ製茶技術と整備された流通組織を背景にし、茶の国内需要に対して主産地の座を誇っていた。
東西に有名な茶の生産地をひかえた三河地方では、早くからそれらの影響を受けたものと思われる。
市内では、明治六、七年ごろに熊子村(熊味町)、味崎村(同上)、戸ヶ崎村、八ツ面村などで茶園税を賦課していた記録がみられる。
これらの村々の茶園税の負担額は、藩政時代の茶代の上納額と全く同じである。
明治十八年(1885)年の『愛知県統計書』によると、前年の幡豆郡内(額田郡幸田町の旧豊坂地域を含む)の茶園面積は、総計一町八反四畝二九歩(184.29アール)であり、その蒔き付け年別面積の内訳は、蒔き付け後9〜10年を経た茶園一反七畝二歩、11年以上経た茶園を一町六反七畝二七歩となっている。
このことから、明治六、七年ごろの幡豆郡内の茶園面積は、少なくとも約一町七反歩はあったということになる。
ところが、この茶園面積は当時の茶樹栽培の規模を必ずしも正確にあらわしたものでなく、おそらくこれ以上の茶樹があったことに注意すべきである。
たとえば、明治十一年の「羽塚村農産物調査票」(羽塚町町内会議蔵)をみると、耕地面積と作付けした農産物が詳細に記載されいるが、その中に茶樹の記録はないのに、「茶綿麻皮竹木類之部」の欄に「番茶四三貫目(157.5キログラム、煎茶4貫目(15キログラム)と記されている。
このことは、茶樹が耕地以外の土地、たとえば畑の縁や屋敷まわりなどで栽培されていたことを示すものと考えられる。
以上のような状況から、明治初期に市内で栽培されていた茶樹は、そのほとんどが江戸時代からの在来種の実生によるものとみて間違いなかろう。
しかし、維新後、国内向けはもとより海外輸出用など、茶が換金作物として有利性が認められるようになって、明治四、五年ごろから一部の先覚者らが新品種の導入に、栽培技術や加工技術の向上に、あるいは茶園の拡大に熱心な努力を傾けるようになった。 |
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