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明治以前の茶の栽培 |
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西三河での茶樹栽培の最も古い文献は平安時代中期の漢詩文集「本朝文粋」(長暦元・1037〜寛徳二・1045成立)に載る慶滋保胤の「晩秋過参州薬王寺有感」のなかの「有茶園」の一句である。
薬王寺は西本郷(岡崎市)西方蓮華寺の林間にあったという(『碧海郡誌』)。
西尾の茶の起源は上町に実相寺の開山聖一国師(円爾弁円。1202〜1280)が茶種をもたらしたによるといわれる(『愛知県特殊産業の由来』下巻)が明らかでない。
市内での茶の栽培の最も古い記録は慶長六(1601)年に、板倉四郎右衛門勝重がその領村の貝吹村、永良村へあてた「仕置之覚」の中の「茶薗能々立置可申事」(『西尾市史』二374ページ)である。
これは領主飲用のための茶園を村に設けさせたものであろう。
近世の市内の村々に茶が栽培されていたことは西尾藩が茶代又は定納茶代(『西尾市史』三361、433ページ)という貢租をとり立てていたことによって明らかである。
茶代が西尾藩の年貢割付状(免)にみえるのは正保二(1645)年の小島村のものが最も古い。
当時の茶樹栽培がどんな形であったかは、有名な、上町の実相寺と正念寺の茶の木論の判決書によって知られる。
元禄五(1692)年の江戸幕府評定所の判決書によると、実相寺と正念寺の間でその所有権が争われたのは「畑際の茶の木」であった。
当時はまだ独立した本畑の茶畑はなく、他の作物とともに、又は畑縁、畦畔、屋敷内に茶の木が栽培されていたのである。
このことは西尾藩の年貢賦課の要領を示した「地方御答書」(『西尾市史』二1313ぺ−ジ)にも明らかにされている。
だが、同じ判決書に正念寺は別に茶園を所持していたことが記されているから、寺の境内などには茶園があったのであろう。
茶の木は当時、相当に尊重されて売買の対象ともなっていた。
渡辺政香が記録した「渡辺氏記録」(寺津町渡辺ツユ子蔵)のなかに、羽塚村の川部三太夫が寺津村の神官渡辺助太夫に茶の木35本を金三両で売り渡した証文が記されている。
明和四(1867)年のことである。
相当高価のように思われる。
このように、近世の市内の村々では相当に茶の栽培が行われていたことを知ることができるが、それが自家用にすぎなかったのか、加工販売されていたのかを知ることのできる史料は見当たらない。 |
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