敗軍の将は兵を語らず(はいぐんのしょうはへいをかたらず) |
意味:戦いに敗れた将軍は兵法を語る資格がない。失敗した者はそのことに対して語る資格がない。 |
智者の一失、愚者の一得(ちしゃのいっしつ、ぐしゃのいっとく) |
意味:知恵の優れた者もときには間違いがある。また、愚かな者もときには優れた考えを出す。 |
“背水の陣”の戦いに先立ち、趙では韓信ら漢軍が攻めてくるとの知らせを受け、趙王歇(あつ)と成安君陳余(ちんよ)が二十万の兵で攻撃に備えていた。
広武君李左車(りさしゃ)が成安君陳余に対し献策をした。
「漢軍は勢いに乗って進軍してきており、決してあなどれません。
しかし、こちらに至るまでの道は狭く、漢軍は隊列を組んで進むことができません。
そのため、兵糧の輸送は必ず後方に取り残されます。私に三万の兵をお貸し下されば、間道づたいに、漢軍の補給線を断ち切りましょう。
背後を遮断し孤立させれば、敵は進むことも退くこともできません。
十日もせぬうちに敵将の首をおとどけできましょう。」
しかし、日ごろ儒者をもって任じていた成安君はこの策を退けてしまった。
結果趙軍はこの後の“背水の陣”の一戦で敗れることになった。
一方、スパイを放って趙軍の情報を得ていた韓信は、全軍に広武君李左車を殺さずに捕らえてくるよう命令を出していた。
戦いが終わって広武君が捕らえられて韓信の元に連れてこられた。
韓信は、広武君の縄をといて上座に座らせると師弟の礼をとった。
そこで、韓信は広武君に聞いた。
「私は北の燕と東の斉を討とうと思いますが、どうすれば成功するでしょうか」
広武君は謝辞していった。
「“敗軍の将には勇を語る資格がない、亡国の大夫には国家の存立を謀る資格がない”と聞いております。私は負けて国を亡くした捕虜の身です。どうしてそのような大事を謀る資格がございましょう」
韓信が言った。
「百里傒(ひゃくりけい)は虞にあって、虞は亡び、秦にあって、秦は覇を唱えました。
これは決して、彼が虞で愚者だったのが、秦に来て智者になったわけではありません。君主が彼を用いたかどうか、彼の意見を取り入れたかどうかということです。
もしも、成安君があなたの計略を取り入れていたならば、この韓信ごときはとうに捕らわれていたことでしょう。
彼があなたの計略を入れなかったがために、私はこうしてあなたにお仕えすることができるのです」
そして、韓信は曲げずに教えを請うた。
「わたくしは心よりあなたの計に従います。どうか辞退なさらないでいただきたい」
広武君は言った。
「“智者は千慮に必ず一失あり、愚者も千慮に必ず一得あり”と聞きます。
ですから、“聖人は狂人の言葉も採りあげる”と言うのでございましょう。
わたくしの献策など採るに足らぬとは存じますが、忠誠を尽くさせていただきます」
こうして、広武君に授けられた策に従い、韓信はみごと燕を服従させることに成功した。
【史記・淮陰侯列伝】