尾生の信(びせいのしん) |
意味:かたくなに約束を守りとおして、融通のきかないこと。 |
世間でいうところの賢士は、伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)だが、伯夷・叔斉は孤竹国の君主を辞退して、首陽山(しゅようざん)で餓死し、亡骸は埋葬すらされなかった。
鮑焦(ほうしょう)は清廉高潔にこだわって世間を非難し、木を抱いて死んだ。
申徒狄(しんとてき)は諫言が聞き入れられなかったので、石を背負い河に身を投げて死に、魚の餌となった。
介子推(かいしすい)は最も忠義者で、自分の太ももの肉を割いて、晋の文公に食べさせた。文公は国に戻った後、彼に背を向けて報いなかったので、子推は怒って去り、木を抱いて焼け死んでしまった。
尾生(びせい)は橋の下で女と会う約束をしたが、女が来ない。河の水かさが増してきたが、尾生はその場を立ち去らず、橋げたを抱いたまま死んだ。
この六人は八つ裂きにされた犬や河に流された豚、ひさごを持って物乞いをする乞食と変わりない。みな、名節を重んじ、命を軽んじて死に赴き、本質を考えて寿命を養うことができなかった者たちである。
【荘子・盗跖】
戦国時代のこと。蘇秦(そしん)が燕王に言った。
「曾参(そうしん)のように孝行者でしたら、義として一晩でも両親の元を離れて外へ出ることはございますまい。王さまはどのようにして、千里の道を歩かせ弱い燕の国の危うき王に仕えさせることができるのでしょうか。
伯夷のように廉潔であれば、義として孤竹国の君主の座も継がず、武王の臣にもならず、封侯も受けず首陽山の麓で餓死したのですから、このように廉潔であれば、王さまはまたどのようにして千里の道を歩かせ、斉において進んで新しいことに取り組ませることができるのでしょうか。
尾生のように信義を守る人であれば、女と橋の下で会う約束をして、女が現われなかったのに、水が増えてきてもそこを離れず、柱を抱いて死んだほどです。このように信義を守る人であれば、王さまはまたどのようにして千里の道を歩かせ斉の強兵を退かせることができるのでしょう。
わたくしはいわゆる忠誠と信義というもののために、上より罪を受けたのでございます」
【史記・蘇秦列伝】