はじめに、新ページ構築を長期にわたって休止してしまったことをお詫びします。
かねてより行かなくてはと心の片隅にあった路線がたくさんありました。
その中で、東北・北陸方面の路線が3つも廃止されることが判明し、善は急げと訪問を決意しました。
そして、無事にお別れ前の挨拶を済ませることができました。
ここからページでは2006年8月7日から5日間にわたったその旅行内容をレポートします。
やっぱり私の旅行にムーンライトシリーズは欠かせません。
今回の旅行も刈谷駅0:12発のMLながらで始まりました。
しかし、この列車は二つの必需品を忘れると地獄と化します。
それはアイマスクとマスクです!
夜行列車なのに室内灯を減光してくれないありえない列車ですから。
それにマスクがないとのどが渇いて寝れません。
さらに373系は椅子が硬すぎます。
本当は183系に乗るべきでした。
私は今回、あまり寝れませんでした。
これが全ての失敗の始まりでした。
東京に着き、上野駅に出て東北本線に乗りました。
写真は上野駅です。
列車内では初乗車区間にもかかわらず爆睡していました。
鬱の宮に着いたとき、事件は起きました!!
降りた後、リュックサックを網棚に忘れたことに気付き、10両分以上のホームを猛然とダッシュしました。
しかし、網棚からそいつは忽然と姿を消していたのです!!
「オンドゥルルラギッタンディスカーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」
「俺の体力を返しやがれ!!てくれ!!」
と怒り狂っていると、作業員が何人かいるのに気付きました。
そうです!犯人は作業員でした。
降りて3分とたっていないのにもかかわらず、遺失物係りに届けやがっていたのです!
せっかく気付いて迎えに行ってやったのに、余分なことをしやがって・・・。
このせいで予定の列車に乗り遅れました。
まさに「鬱の宮事件」でした。
よけいなことばかりしやがる作業員のせいで東北新幹線を使わされました。
全く以って不本意です!!
しかし、せっかくの旅ですから楽しまなくては意味がありません。
駅でうどんを食べ、新幹線を楽しむことにしました。
東北新幹線はとても面白い併結編成が走ることでも有名です。
ホームにいるだけでE2-1000とこまち用E3、そしてE4と400の二種類の併結列車を見れました。
そして、乗った新幹線は丸鼻の更新200系でした!
この車輌も数を減らしているので、あまりにも偶然な巡り会わせに感動しました。
たまにはハプニングも良いものですね。
同じ新幹線でもどこぞの「悪の怪人・トーカイン」ことJR東海のつまらない奴等とは大違いです。
新白河駅までの「ワープ」を脱出し、やっと交流在来線区間に乗車できました。
左写真の415系?電車は北陸と九州にも親戚がいます。
しかし、東北塗装をはじめて見ました。
後日談ですが、この列車は2007年3月改悪で半数以上が引退に追い込まれてしまいました。
このとき乗っておいて本当に良かったです。
そして、福島からは211系交直流版といった車輌の「快速シティラビット」に乗って仙台まで行きました。
けれど、この車輌は東海圏の211とは全く比べ物にならないほどいい車輌で、セミボックス固定クロスシートという特殊なシート配置をしています。
静岡近辺に最悪な車輌を導入したトーカインにJR東日本仙台支社の爪の垢を飲ませてやりたいです。
しかし、ここまでの嫌な気分も、この駅舎を見たとたんにどこかに飛んでいってしまいました。
くりでんの石越駅はJRのモルタル駅舎の斜め向かいに建っていました。
この白塗りの羽目板が何とも言えない美しさを演出しています。
駅前に停まっているタクシーもちょっと古めのクルマで、愛知ではめったに見られません。
そして、木造の扉から石造りの頭端式ホームを見ると、この駅が昔ながらの私鉄の始発駅であることを実感できました。
くりでんは当初、直流750Vの電化施設を持った「栗原電鉄」でした。
しかし、1995年に電車営業を廃止し、「くりはら田園鉄道」と改名しました。
そのとき以来の主役がこの3両のKD95型でした。
赤みがかったマルーンの車体で、番号ごとに違ったエンブレムをつけていました。
そして、車内の床はフローリングで覆われ、青モケットのセミクロスシートを装備していました。
そして、運転席には廃止されるまで現役であったタブレットのキャリア掛けがありました。
そして、KD95型の予備車として名鉄からキハ10型レールバスのキハ15・16番が連れてこられました。
名鉄キハ10型は、今は亡き八百津線と三河線の両端区間で運用されるため、富士重工で製造されました。
樽見鉄道のハイモ180型とも同世代の車輌で、LE-CarUシリーズと総称されています。
この15・16番は冷房装置が搭載された後期車(14〜16番)で、主に三河線で使用されました。
そして、名鉄最後のレールバスとなったキハ30型の登場と共に引退し、くりでんにやってきてKD11・12番になりました。
わたしにとってこの二両は地元の車輌であり、やっと念願の再会を果たせました。
脇に写っている協三工業製の片キャブDLはくりでん唯一の現役機関車であったDB10型です。
私はこの車輌たちが走っている姿を一度も見ることが出来ませんでした…。
右写真のバス窓電車は、電化時代の主力車輌であったM150型です。
この車輌の図面は若柳駅で手に入れることが出来ました。
片運転台であること以外ほとんど同型の制御付随車であるC150型も存在しました。
ちなみに、Mはモーター車、CはControlerで制御車を意味する形式です。
上の二両の写真をよく見てください。
ぱっと見て違う物だと言うことがわかりますよね?
しかし、この二両は形式が全く同じM180型なのです!
栗原電鉄は車輌形式を車体の長さで決めていたのでこのような事態が起こったのです。
左側がM181番で、右側はM182番です。
M181番は自社発注車で、西武所沢工場製らしい湘南顔が特徴です。
M182番はもう一両のM183番と共に福島交通からやってきた日本車輌製の電車です。
福島交通も栗原電鉄と同じ直流750Vで軌間1067mmだったので、ちょうど良い再就職先だったのでしょう。
ちなみに、福島交通は今は直流1500Vに昇圧され、東急7000系の改造車が走っています。
この旅行で、私はまず沢辺駅に降り立ちました。
この木造駅舎は本当にきれいで、ここまで来たかいがあったと感動しました。
しかし、壁に掲げられた存続への必死な願いが叶えられなかったことが本当に悔やまれます。
こんなありふれたローカル風景こそ、何よりも大切なものだと思うのですが、困ったものですね。
駅構内も、対向式ホームと島式ホームが構内踏切によって互い違いの位置でつながれています。
たぶんタブレットの受け渡しに最も効率が良い配置にしたかったのでしょう。
しかし、この駅の魅力はこのローカルな雰囲気だけではありません!
くりでんでは、廃止される時まで腕木信号機が現役で活躍していました。
そして、この若柳駅にも二本の腕木信号機が立っていました。
これは石越方面の場内信号機です。
特にこちら側は田んぼの真ん中にすっくと立っていたため、その優美な姿をはっきりとカメラに収めることが出来ました。
やはり、このすっきりとした機能美はとてもすばらしいものですね。
現在、現役の腕木信号機は津軽鉄道か小坂鉄道でしか見られないものになってしまったそうで、悲しい限りです。
次に降りたのは、上で紹介した車輌たちが眠る車庫がある若柳駅です。
駅自体は沢辺駅と同じ構造をしています。
くりでんの有人駅の標準型なのでしょう。
この駅の脇にある細い通りを少し行ったところに本社がありました。
車庫も木造で、何ともいえない良い雰囲気が漂っていました。
この駅にも腕木信号機がありました。
次は一気に終点の細倉マインパーク前駅まで全線乗車しました。
この駅は細倉鉱山が閉山になった後にその跡地に造られたテーマパークの名前が付けられています。
こじんまりとした三角屋根の駅舎がぽつんと佇んでいました。
この駅の石越方にはかつての終着駅であった細倉駅の駅舎が廃屋となって存在していました。
線路配置もかつてのまま残っているようでした。
駅前には凸型電気機関車のED20型と有蓋車が保存されていました。
この機関車はナローゲージ時代からの車輌で、やけに大きなパンタグラフと台車が特徴です。
電気営業が廃止される直前まで現役でした。
次に降り立ったのは栗駒駅です。
栗駒駅には沿線で最も大きな駅舎がありました。
そして、街もほかのところよりも栄えているようでした。
この駅もかつては交換駅で腕木信号機を使っていましたが、末期は使っていなかったようです。
そのせいもあってか廃線前に駅員をなくすことが決定されかけていたのです。
硬券乗車券を買うにはその前に行かねばならず、今回の下車駅には絶対に外せない駅だったのです。
しかし、廃線前のイベントが数多く計画されて実行されたため、結局駅員さんは廃止の日までこの駅舎を守ることになりました。
やっぱり大きな駅舎には駅員さんが居ないと落ち着きませんからね。
栗駒駅の次は、鶯沢駅で昔ながらの鐘突き式踏み切りの音を堪能しました。
そして、ついにこのときが来てしまいました。
くりでんの石越行き最終列車に乗り、東北本線の北上行きを待ちました。
この日の宿は北上駅前のホテルにしたため、この列車に乗らなければいけなかったのです。
くりでんの石越駅では、明かりをともしたKD95がぽつんと佇んでいました。
私は次の年の3月の再会を誓い、石越を後にしたのでした…。