今回は今までとはちょっと趣向を変えた内容にしようと思います。
私の趣味の原点は、名鉄三河線と碧南の明石公園の二つです。
私は近視で、刈谷の眼科に通っていた時期がありました。
その後、名古屋の金山駅前にあった眼科に通いました。
しかし、その甲斐も無く今はメガネ男です。
今になって思い出してみるとその事が今の趣味に影響しているのでしょう。
そして、明石公園にはミニ鉄道とNゲージの鉄道模型がありました。
そこで見たNゲージのレイアウトに憧れ、鉄道模型趣味が始まりました。
今回は、名鉄三河線がまだまだ輝いていた時期のことをお話します。
他の路線のことも少し紹介します。
まだ親からのお下がりのデジタルカメラを持っていなかった中学生時代、写真と言えばレンズ付きフィルムでした。
撮り直しはできないし画像確認も露出もできません。
ですから駄作の連発ばかりでした。
しかし、その写真を掘り出してみたところ、今ではすでに見られないものがいろいろ出てきました。
スキャナー読み込みのため画像の鮮明さには欠けますが、希少性があると言うことでお許しください。
私の中で、一番の「心のふるさと」がこの吉浜駅でした。
しかし、名鉄現経営陣にズタズタに傷付けられてしまいました。(TдT)ウワァァアアアアン!
この写真はまだ傷つけられる前の美しい姿です。
こんな小さな駅でも撮影当時は有人駅でした。
左写真の向日葵がわかりますでしょうか?
当時の駅長さんが丹精こめて育てていたのです。
そして、ここはもとは交換可能駅で、貨物側線もありました。
駅舎とホームの間の不自然な空間はその名残でした。
右写真も、当時の穏やかな空気が感じられる写真です。
ホーム屋根はオレンジのテントでしたし、青い帯板が特徴の名鉄タイプの鉄路柵も健在でした。
撮影場所は貨物ホームだったところで、今も駐車場として使われています。
名鉄三河線の駅舎の中で、小垣江駅ほど悔やまれる駅舎はありません。
この駅舎は、三河線の前身である三河鉄道時代からの歴史あるものでした。
駅舎前には刈谷市が建てた案内板もあります。
この案内板があるならこの駅舎は安泰だと思っていたのです。
しかし、その予想は見事に裏切られてしまいました。
三河海線のワンマン化の魔の手がこのすばらしい駅舎にまで及んだのです。
解体中のユンボに「なぜ裏切ったんだ!!このバカヤロー!」と叫んでやりたくなりました。
そのせいで、今では一番嫌いな駅になってしまいました。
左写真がこの駅舎の歴史の証、「三河鉄道社紋入り鬼瓦」です。
同じ物は名鉄博物館にもあると聞きます。
しかし、そんな物に意味はありません。
こういうものは元の場所できれいに使われ、美しく老いてこそ価値があるのです!!
そんなこともわからない奴なんてしょうもない奴らだとしか言いようがありません。(`д´#)
右写真は上写真の奥側をアップで撮った物です。
こんな部分にも歴史を感じることができますね。
こんな素晴らしい物が今は跡形もない事を怨む以外に何ができるのでしょうか?
ここからは駅舎のことは少しお休みして、懐かしい車輌のことをお話しします。
そして、当時はこんな素敵な電車が走っていました。
パノラマカーの先輩で、元祖SR車の一員である5500系です。
扉部分を除いた全転換クロスシートの豪華車輌で、日本初の大衆冷房車ということでも知られています。
この車輌は運転士さんの脇や反対側の窓にかぶりつきできるので一番好きでした。
モーター音も他にはない豪快な感じで、本線運用のときの迫力は凄いものでした。
弥富行き急行の運用に入ったときはわざわざこれで名古屋まで乗り通したこともある程です。
この写真は当時の私なりに「鉄道写真」を意識して撮ってみたものです。
私は5500が一番三河線に似合っていた車輌だと思います。
左写真は5500の走行中の横顔です。
結構スピード感があるきれいな顔でした。
こんな素敵な列車にもう乗れないなんて淋しすぎます。
右写真は、これもなつかしの車輌、「キハ20系レールバス」です。
当時は吉良吉田から西中金までの全線のレールが健在で、レールバスが元気に紫煙を吹き上げて活躍していました。
そして、朝に碧南〜吉良吉田間の通学列車を担当した車輌は山側の猿投にある車庫まで帰っていきました。
その珍しい列車がこの写真なのです。
このキハ20系は後輩のキハ30系とともにミャンマーに行ってしまいました。
2軸のキハ10系は冷房車だけが「くりでん」に転じましたが、2007年3月末日までの活躍のようです。
本当に淋しい時代になってしまったものですね…。
5500系はいろいろな車輌と併結できることでも知られていました。
特によく5300系や7700系と併結していました。
本線ではパノラマカーとも併結し、急行運用に就いていました。
右写真は犬山で撮った物で、後述する「甦る5500系」イベントのときの様子です。
どちらも5300系を連結しています。
今ではGMのキットで簡単に再現できるようになりました。
私は当初、この編成の存在を知りませんでした。
5500系は低運転台だけだと思い込んでいたのです。
しかし、ある年の末に三河高浜駅でこの編成と出逢って乗ることができたのです。
そのときは本当に驚きました。
この5509号を含む4両編成は一足先に消えてしまいました。
そして、私がこの電車に逢えたのもこの一度きりでした。
これが5500系の車内の様子です。
他の車両とは一目瞭然な違いがあります。
それは壁の色です。
他の車両は白系の内装なのに対し、こちらは心が落ち着くライトグリーンの内装なのです。
クーラーダクトの形状も違いましたし、ファンデリアも天井の各所に点在していました。
両開きの貫通扉や本当に金網で造られた「網棚」などの懐かしい車内設備も健在でした。
左写真の右側先頭座席が私の特等席でした。
こっちなら車掌の邪魔がない限り運転士気分を味わえたのです。
それだけに、邪魔されたときは本当に腹が立ちました。
今では良い思い出です。
前の名鉄旅行のページにも紹介しましたが、三河線には本線からの直通急行が毎時一往復入ってきていました。
上写真は無くなることが決まってしまったダイヤ改正の直前あたりに撮った写真です。
そういえば、この「鉄仮面」自体も最近三河線に入って来なくなりました。
末期にはそれこそ「ECSカー」や「増結用パノラマスーパー」なども入ってきましたが、それも今では幻になってしまいました。
それでも今(2007年)はまだ良いほうです。
7700系や6000系の初期車が居ますから…。
その6000系も、90年代はちょっと装いが違っていました。
上写真をご覧になってお気づきでしょうか?
そう、扉の上半分が白かったんです!
実は私も、掘り出してみたときにやっと気付きました。
何気ない車輌だと思っていても、撮っておいたら貴重な記録になったという好例です。
皆さんもその辺も心がけて撮影されてはいかがでしょうか?
最近のステンレスカーは撮る気がしませんけどね…。
大好きだった5500系も東海豪雨での事故廃車が引き金となってどんどん消えていきました。
そして、最後には2両編成が3編成残るだけになってしまいました。
しかし、その編成たちも三河線での運用が本職だったようで、よく写真を撮りました。
特にこの茶色とサーモンピンクの編成にはよくお世話になりました。
反面、他の2種類の編成とはあまり逢う機会の無いままお別れを迎えてしまいました。
右写真は刈谷で撮った3種類目の白帯編成です。
斜めに切られた先頭部分の帯がかっこいいですね。
やっぱり当時はまだまだ写真は下手でした。
5500系の魅力は、何と言ってもこの前サボ交換風景でしょう。
いま、恒常的に前サボを使っているのは7700系だけになってしまいましたが、少し前の名鉄の象徴はこの前サボです。
ちょうど知立に着いたときに係員の方がステッブに足をかけてひっくり返しています。
たまに貫通扉を開けて車内から変えていたこともありましたが、やっぱり外からのほうがダイナミックで好きです。
右写真はサボを変える直前です。
当時の私のお気に入りの「お立ち台」は、三河線の小垣江〜吉浜〜三河高浜の沿線でした。
自宅の最寄り駅が吉浜駅なので、その両側なのです。
このページの写真はほとんどそこで撮っています。
その中でも一番のお気に入りが、吉浜〜三河高浜の中間地点にある神明社の参道跨線橋でした。
そこは掘割の中を走る電車の屋上を狙えるため、よく撮影に行きました。
そこで撮った写真が上の2枚です。
もう少し引き寄せてから撮ったほうが良かったですね。
左は同じ列車の後追いです。
2色が連結されたラッキー編成でした。
そして、懐かしの3色が揃い踏みした夢のような時間にも終わりが来てしまいました。
平成17年の早春、たぶん名古屋から帰ってきたときだったのでしょう。
吉浜駅で降り、駐輪場で自転車の鍵を開錠してから暫くゆっくりと撮影していると、踏切が鳴り出しました。
カメラを構えて待っていると、5300系が現れました。
そして、後ろに5500系のクリームと赤帯の編成を従えていたのです。
後追いで撮影してから駅の反対側に行き、もう一枚撮りました。
そして、それを最後に私と5500系は永遠の別れを余儀なくされました。
しかし、今でも私の心の中と三州保存鉄道の線路上では5500系が元気に走り回っています。
そして、これからも決して忘れることはないでしょう。
そして、時は私の大学入試センター試験の前後に移ります。
その頃、もう1種類の電車が引退の時を迎えました。
それは「パノラマDX」の愛称で親しまれた8800系です。
上の2枚は神宮前駅すぐ脇の有名な踏切で撮った物です。
「LastMemoly パノラマDX」の文字が悲しみを誘います。
そして、ダイヤ改正の前日に知立駅で見送ったのが最後となってしまいました。
そして、とうとうこの日が来てしまいました。
この写真を撮影したのは吉浜駅の駅舎の解体工事が始まる前日です。
駅の玄関や表口にはすでに何日か前から案内広告が貼られていました。
そして、旧駅舎が現役として使われた最後の日、駅舎の遺影の撮影をしました。
今の駅舎と比べると断然暖かみがあって、それに緑も豊かです。
駅舎からホームの間の空間は線路二本分あり、そこには駅舎側から順に貨物線、そして1番線がありました。
今も残る3線分の架線柱と花壇の中に残っていた線路2本分の枕木がその生き証人でした。
こんなにも暖かみと歴史の片鱗を感じられる風景が無残にも消えてしまったのです。
待合室には木製の長椅子が壁沿いにあり、雨が降ったときはそこで列車や迎えを待ったのです。
今の駅舎は改札機と券売機だけで、椅子のひとつもありません。
ホームに新設された椅子も、後ろが金網なので寒い上に雨が降り込んで使い物になりません。
唯一、ホーム中央の古レールでできた旧待合室の中にある椅子だけが安らげる場所になってしまいました。
こんなに魅力がない駅舎ばかり増設する最近の名鉄は頭がおかしいとしか言いようがありません。
そして、当然ながらこんなにも暖かな出改札風景も見られなくなってしまいました。
それと合わせて、休日に使える「まるのり1DAYフリーきっぷ」も吉浜駅では買えなくなってしまいました。
本当に「ふざけるな!!!」と叫びたくなる改悪です。
しかし、高浜市内に残るあと2駅は元のままの状態で券売機と自動改札を設置しただけの改造を施しただけのようです。
特に、小垣江駅と似た木造駅舎がある高浜港駅は室内の改造だけでいい雰囲気を残しています。
なぜ小垣江と吉浜、そして重原の3駅だけがこんな憂き目を見なくてはいけなかったのか、当時の担当者を小一時間問い詰めたいです。
今回も気付いたら現在の名鉄に対する恨み節のオン・パレードになっていました。
しかし、ここまで率直な意見を言ったのは、それだけ以前の歴史的な物を大事に扱う経営体制が好きだった証なのです。
つい最近「いもむし」こと3400系のク2401号車が解体されてしまいました。
もう「いもむし」の本線臨時復活運転は望むべくもありません。
その上、名鉄の象徴であるパノラマカーまでもがあと数年の命となってしまいました。
はっきり言っておきます。
パノラマカーの無い名鉄なんて名鉄じゃない!!!
名鉄が名鉄なのはあと何年後までなのでしょうかww。
そうなったら私は名鉄をきっぱりと見捨てます。