愛知県碧南市 大浜小学校の木造校舎を覚えていますか? あの「鬼瓦」は現存

思い出半ズボン

大浜小学校校舎

「学校敷地内立ち入り禁止」厳守! 母校への思い出は心の中にだけある

校章の入った鬼瓦

<「学校への立ち入りを禁ず」との時世。気軽に訪れることは出来ないからこそ、母校への思いは募る。大浜小学校の校章入りの鬼瓦に木造校舎の懐かしき記憶。最後のお別れにはみんなで絵を描いた。思わぬ場所で発見する大浜小学校の校章。ヒントは西方寺北の味淋工場> ある日、私は母校の大浜小学校を訪れる機会を得る。20年以上前に卒業して以来の訪問である。気軽に母校を訪れることの出来ない時世、こみ上げる懐かしさに胸がいっぱいだった。 体育館入口前に4つの鬼瓦を見つける。大浜小学校の校章をかたどった鬼瓦である。昭和52年(1977)まで大浜小学校にあった木造校舎の鬼瓦だ。 大浜小学校に木造校舎が造られたのは、明治37年(1904)。大正9年(1920)5月に南校舎が増築、大正13年(1924)11月に改築される。 当時の工事は地元の人々が集まり、奉仕活動として地突きが行われていた。 私も木造校舎を知る世代で、長い廊下を雑巾拭きすると、ささくれが手に刺さり、痛い思いをした。 また渡り廊下の先に離れた便所があり、怖かった思い出がある。 木造校舎が壊される最後のお別れ会で教室中に絵や言葉を書き連ねたのを思い出す人もいるだろう。 さて、この鬼瓦にある大浜小学校の校章を思わぬ場所で目にすることが出来る。ヒントは、大浜・西方寺の太鼓堂脇の道を西へ、坂を下った場所にある瓦葺きの味淋工場屋根を見てみよう。 理由を知る人はかなりの「大浜通」である。

ありがとうの石碑

<懐かしき「ありがとう」の石碑との再会。学校で生涯を終えた生物を弔う目的で、昭和51年度卒業生達が建てた。この石碑にはたくさんの卒業生の思いやりと感謝の気持ちが込められている。片隅に追いやられ、どこか行き場を失った感のある石碑に一抹の不安を覚える> 「私の在校時代は、もう少しキチンと清掃が行き届いていたような…」と久しく訪れた母校に不満を抱きつつ、ある懐かしきものが目に留まった。 茶褐色の一枚岩で出来た石碑。正面には「ありがとう」と大きく刻まれていた。 学校のみんなで飼っていた生物、授業の上に犠牲となった生物を弔うために建てられた石碑である。建立者は昭和51年(1976)度の卒業生。 みんな、涙しつつ遺骸をこの石碑近くに埋めていた思い出がある。この石碑には、たくさんの「思いやりと感謝」の気持ちが込められているのだ。 懐かしき「ありがとう」の石碑との再会に感激しながらも、正直、不安が過ぎる。 昔はもっと目立つ場所にあり、まわりを綺麗に清掃され、大切にされていた記憶があるのだが。 石が転がり、雑草は生え、人目の触れぬ片隅に追いやられている様。まるで現代の世情を表すかのよう。 「あの頃の学校って、もっと暖かくて、優しくて、楽しいものだったよな」と、かつての在校生は呟く。

ヘボト自画像ヘボトの「胡馬北風(こばほくふう)」

石標にあるプレート

「明治時代の標柱」

大浜小学校正門の右手、花壇のある場所にひっそりとある石柱。黒い輝きを見せるプレートには次のように刻まれる。 「この標柱は明治三十七年四月 学校新築時の正門であり現在地より西七米にあった 昭和五十五年四月 識」。 現在ある大浜小学校の地は、旧字名「才勝」。大浜に3つあった学校を合併し、この地に「第七学区・大浜尋常小学大浜学校」として、明治20年(1887)4月1日の金曜日に歴史をスタートさせる。 明治37年(1904)4月7日(木曜日)に校舎を新築した際、この標柱も正門として造られる。 「まー何も面影ないがん」と訪れたお婆さん。昭和4年(1929)の大浜尋常高等小学校正門をうつした写真を見る機会があった。 写っていたのはあの標柱と私の記憶にある風景。 だが、近年大きく変化した大浜小学校に、大浜小学校を卒業して20年以上の私も記憶の合致が難しくなってきた。

< text • photo by heboto >


Copyright (c) 2002-2007 heboto All Rights Reserved
このページに関する御意見・ご感想は【サイト管理者へメール】までお願い致します。